2008/11/28

8.北総石仏 印西大森Ⅰ

印西市大森地区は3回に分けて回りましたが、大森ⅡⅢを先行してブログ記載しました。今回やっとⅠコースにはいります。新人にとって今回も興味深いものがありました。 木下街道を木下方向から南下し中ノ口三叉路交差点から約200m南下で左に小さな大杉神社・最勝院の表示がある三叉路があります。 
8-1.発作上の貝化石石祠 この表示地点の三叉路が目印です。三叉路を左に分かれる地点竹藪に写真下方のようなブロックの石段が見えます。石段を登ると下の写真のような石祠が出現します。 大森は木下層と呼ばれる貝化石群を産するところです。地元の特産?を使った特異な石祠の不思議な信仰パワーに感動です。でも、ちょっと不気味。

8-2.発作上公民館の十九夜塔 貝石祠の三叉路で表示にしたがい木下街道を横切り大杉神社に向かいます。30mほどで突き当りが発作上公民館となっています。隣が大杉神社です。入口に写真のような「六阿弥陀回向所」の石柱がギブスをはめて立っています。これは左面に「左 ふさみち」と刻んだ江戸道標にもなっています。隣に「南 江戸道」の道標も立っています。

テキスト=「石との語らい」によると「総州六阿弥陀詣」は布川の住人星野一楽によって文政年間(1818~1829)に創設されたと記載されています。六阿弥陀のうち発作最勝院(本件公民館隣接)、第三番小倉泉倉寺、第四番大森長楽寺、第五番竹袋三宝院が印西市内に存在します。長楽寺は済ませたので残りの寺も追々記載の予定です。 石柱の横に並んだのは5体の石仏と9基の十九夜文字塔です。上の写真欠けた如意輪観音の左は明和九年(1772)の大日如来で町内古手だそうです。隣接最勝院に正徳三年(1713)で町内古手の地蔵菩薩もあるそうです。(見落としました残念)

8-3.大杉神社 公民館右隣は大杉神社です。社殿右手に目立たぬ感じで右から庚申塔8基、文久三年(1863)出羽三山供養塔1基、寛政二年(1790)の奉納百観音供養塔、大正十一年大杉大明神碑があります。

上の写真中央に二基の笠付庚申塔が見えますがその右側の刻像塔はこんな感じです。享保十八年(1733)造立で下にニ童子を刻んでいます。こちらには下の写真のような右から読んで「愛惜の碑」手賀沼鴨猟組合解散記念だそうです。 8-4.中之口三叉路の朱入庚申塔 元の木下街道(県道59号)を中之口交差点まで戻ります。三叉路の三角地帯に13基の朱に塗りこめられた庚申塔が並んでいます。印西・白井に特徴的な朱入ですが今では激しい赤に感じられます。写真左は寛政元年(1789)の庚申刻像塔右は弘化二年(1845)の青面金剛文字塔です。

後ろに見えるのは、県道沿いにL字形に並んだ享保五年(1720)笠付青面金剛刻像塔をはじめとして、安政・文政年間から明治・昭和8年まで2基の刻像塔9基の文字塔が朱に染まり並んでいます。尚、下の写真で左上に見える赤の矢印は広告看板です。

8-5.発作下厳島神社の刻像子安塔 三叉路を県道59号と別れ発作の集落方向へ入る。県道と平行する集落の更に西方広がる稲田の中に社が見えます。こじんまりした厳島神社です。このあたり多分干拓されて厳島神社が孤島の如く取り残されたようになったのでしょう。入口を入った左手に3基の石造物がありその一体が下の嘉永四年(1851)の手つなぎ子安塔です。可哀想に子供の顔が少しかけています。尚、神社入口右手は十九夜塔・二十三夜塔・子安塔2基と天保十二年(1841)の百ヶ所巡拝塔があります。

神社裏に5基の石造物があります。石祠などですが右端に江戸道標を兼ねた石裂山大権現を刻んだ石塔があります。下の写真ですが右側面は「右 木おろし道」と読めました。北総に種々の霊山信仰がこれだけ豊かに残されている事に正直吃驚します。

8-6.発作青年館道路向かいの庚申塔 集落を抜けて元の大きな道に戻り北上すると大きな駐車スペースのある発作青年館が左手に見えます。道路を挟んだ右手に2基の庚申塔です。昭和51年、昭和56年の文字庚申塔ですが新しいものは黒御影石でしょうか。綺麗! 昭和の時代にも庚申信仰が活きていた証しです。

8-7.関枠橋旧道路傍の犬供養ある馬頭観音 前の通りを北上し関枠橋を渡ってすぐ右に旧道に分かれます。最初の民家の反対側路傍に4基の石塔です。文化四年(1807)の聖観音と3基の馬頭観音です。今も信仰されているのか供花があります。

お花の陰になっていますが右から二つ目の馬頭観音をふと見ると焼焦の付いた二又木が添えてあります。(下の写真で二又木が石像に立てかけられています)テキストにある「犬供養」というのでしょうか。平成二十年の現在もこのような信仰が受け継がれていることを発見し驚きと共に深く感動しました。ところで犬供養とは何ですか?これも解明すべき宿題となりました。
 8-8.六軒コミュニケーションセンターの十六夜塔 
国道356号へ出て六軒橋を木下方向に渡る手前のT字路信号を曲がると左手すぐが六軒子ミュニケーションセンター。見た目は霊園風です。入って左手に地藏など3基が下の写真のように並んでいます。真ん中の上部に如意輪観音を刻し立派な塔は天保三年(1832)の十六夜塔です。これだけ大きな十六夜塔は大変なレアものと思います。右手に六地蔵が見えます。

下の写真のように六地蔵と並んで文政三年(1820)月輪塔と刻まれた十九夜塔が並んでいる。月輪は「がちりん」と読むと思うが月輪塔の解説は見た事がない。月待講によるものと思うが何だろう? ところで石仏事典には「十九夜塔は千葉北部・茨城南西部・その隣接の群馬・埼玉および栃木全域に盛行」と記載があり、「まれに長野、関西は奈良・京都等」と記されるのを見ると今まで見てきた十九夜塔も貴重なものと思えるから不思議なものである。 ガイドブックに徳本念仏塔が見えるとあったが見当たらなかった、見落としたかな。

8-9.六軒厳島神社(鹿嶋神社・水神社)の石造物ワンダーランド 国道356号の六軒橋を渡ってすぐに右折し仲町へ約100m進み広い道を左折して進み弁天川突き当たる手前に大きな鳥居。鹿嶋神社・水神社と掲げられているがここが厳島神社。ガイドには59基の石造物とあるがどう勘定したものか迷います。 神社側に写真のように18基の庚申塔群。享保十三年(1728)と読めるのもあるが全体に傷みが激しく無残な雰囲気。

鳥居の右手に大きな横綱 鳳谷五郎の不僥不屈の碑があります。地元出身で大正4年に横綱となり、本名 滝田明、石碑の書を書いたのは滝田 栄(俳優)で兄の孫にあたるそうです。(以上ウィキペディア)社殿の周りに色々な石祠があります。これは寛政十年(1798)の疱瘡神です。こちらの神社は大正十一年・羽黒霊場18箇所繁栄講参拝記念碑の大きな碑とかもありまして、印西七福神弁才天もおられます。稲荷、三峰、古峰、水神等々民間信仰のワンダーランドかもしれません。 ついでに弁天川沿いに河童のツーショットも見れますよ。

8-10.中央公民館の江戸道道標 弁天川沿いに下れば赤レンガ模様の中央公民館です。駐車場入口に寛政元年(1789)の江戸道道標です。十九夜塔のつくりで正面は「南 江戸」右側面には「十九夜 右 木下 みち」と刻まれています。移設の記載が写真右下に載っています。

以上、お疲れ様でした。

2008/11/24

7.北総石仏 印西大森Ⅲ

7-1.印西中学前路傍の十九夜塔 印西中学正門の道路向側のT字路角に2体の十九夜塔です。状態がよくないので年号が読みきれませんが元禄三年(1690)と宝暦年間(1751~1763)のものと思われます。こちらでずっと子供たちを見守ってきたのでしょうか? 
  7-2.大森下星光院跡の石仏達 中学正門前のT字路を西に向かいます。道路沿いに家庭菜園・野原・畑が点在します。民家に突き当たると左に曲がっています。その角にかってあった星光院の住職供養塔?小さな石祠・石柱が忘れ去られたように存在します。石仏達はその突き当たり民家の左側=南側に笹に埋もれて置き去りにされています。7体ほどを確認しました。土地の方にうかがうと原っぱを家庭菜園にするのに石仏をこのあたりに片付けたようです。 写真手前から宝永元年(1704)次が元禄十年?(1698)の十九夜塔、三番目は下の写真の天明三年(1783)得大勢至菩薩の文字塔です。石仏事典で主に二十三夜待の主尊としての造立が多いと知りました。その次は?保五年の十九夜塔です。
5体目は下写真のように欠けた智拳印ですが金剛界大日如来像と思います。二十三夜待の主尊は勢至菩薩ですがこの像容と印を結ぶ手首を見るとそう思えません。年号等は不明。月待塔では十五夜・十六夜塔に大日如来の例があります。二十三夜塔でも大日如来の例があるそうですからあるいはそうかも。でも、墓碑という可能性もあり精査が必要でしょう。残り2体は年代不明十九夜刻像塔でありました。
7-3.古新田北向地蔵
印西中学校に戻り正門前の道を約1km南下します。左手にお立ち台に赤布をまとったお地蔵様です。テキストでは正徳三年(1713)だそうです。私は外見では分からずお地蔵様の赤布をめくるのは遠慮しました。「北向き」の石造物は結構多いのですがこの理由は研究課題としておきます。尚、傍らに小地蔵などありますが何れも墓碑のようです。
このお地蔵さんの近隣に見るべきものが3箇所にあります。
7-4.北向地蔵裏の馬頭観音
お地蔵さんのT字路を左折し地蔵の並び20m先の竹やぶ道沿いに5体の馬頭観音が横たえられています。
1体は安永八年(1779)の刻像塔です。下の写真のとおり宝馬・馬口印もしっかりしています。左端は安政四年(1857)一つ置いて嘉永五年(1854)あと2体は年号不明の馬頭観世音の文字塔でした。
7-5.古新田青年館の石仏群
北向地蔵に戻り来た道を戻ること1軒おいて隣が古新田青年館です。道路から上がると広場を囲むように右手から奥に石仏群が広がります。但し大部分が江戸時代墓碑なのでご注意。まず入口近いほうから10体程の十九夜刻像塔や二十三夜文字塔があります。お目当ては入って正面に見える印西大師堂31番の社の後ろにあります。
寛文八年(1668)の天蓋付き逆手の如意輪観音です。珍しい!
そして大師堂の左隣にも寛文十年(1670)二十三夜塔ですが右側面は勢至菩薩、左側面に地蔵菩薩を浮き彫りした文字塔があります。2mはある立派なものです。これだけのものを遺した女人結集パワー恐るべし。
大師堂後方の石仏を見ているとさりげなく六地蔵石塔があったりします。
7-6.火皇子神社の石祠
古新田青年館を出たところ左のT字路を東に突き当たると、天彦火火出見命(あめのひこほほでみのみこと)を祀る火皇子神社です。すっかり整備されテキストにある元禄十二年(1699)の鳥居は社殿側に片付けられています。石祠も見当たりません。左手の大木下に石祠2社を見つけました。右が寛政十一年(1799)金毘羅宮ですが左は道祖神でしょうか?
探し回った結果、目当ての町内最古享保二十年(1735)疱瘡神石祠は社殿右後ろにひっそりとたたずんでいました。
7-7.古新田庚申塚
元の道まで戻ります。このコースお仕舞いは庚申塚です。元の青年館前の道を250m南下すると左手に庚申塚がコンクリートで整備されてテキストから3基増えた15体の庚申塔群です。逆光で写りが悪くて残念ですが実物は迫力満点です。
前列7基は文字塔です。よく見ると左2基目はで常陸國住人某が建てた秩父坂東西国四国百八十八箇所巡拝記念供養塔となっています。残りは左から文化三年(1806)青面金剛王塔、一つ置いて文政五年(1822)延宝?八年(?1680?)嘉永六年(1853)万延元年(1860)明治三年(1870)の文字庚申塔です。
後列左端は上の写真のように状態のいい安永十?年(1781?)青面金剛刻像塔です。頂に大蛇もあっていかにも強力です。その右隣は蓮華模様の三猿塔です。続いて文化十年(1813)の異体文字庚申塔です。下の写真のようにちょっと珍しいけれどこの書体はなんでしょうか勉強せにゃあ。
続いて安永四年(1775)そして下写真のような宝暦十一?年(1761?)の笠付き青面金剛刻像塔です。
残りは寛?年間と文化九年(1812)青面金剛尊文字塔です。右端は弘化二年(1845)の庚申文字塔でした。お疲れ様でした。ふっー。

2008/11/15

6.北総石仏 印西大森Ⅱ

印西市大森地区の石仏を見て回ります。テキストは印西教育委員会の「石との語らい」です。僕のような初心者にはこのコースだけでも沢山の石仏石碑があって楽しい発見が出来ました。
  6-1長楽寺の庚申塔

長楽寺の入口で北向道祖神が集団で迎えてくれます。期待が膨らみます。

坂を下っていくと右手に本堂を横切るような格好になります。本堂の前に県有形文化財となっている当寺の梵鐘の説明版があります。九世紀前半に創建され応安二年(1367)に寄進された梵鐘について解説されています。本堂に一礼後読んでから更に左手方向の山門をくぐり階段を登れば観音堂左手に庚申塔が八基揃い踏みです。 左から明和?年の青面金剛王・文字塔、明和四年(1767)合掌型六臂像、享保十年(1725)ショケラ持ニ鶏付六臂像、享保七年(1722)ショケラ無六臂像、寛延四年?青面金剛尊文字塔、宝暦十三年(1763)ショケラ持ニ鶏六臂像と続きます。次は

「おおっー」と思わず驚きの声を上げてしまいます。なかなかお目にかかれない豪華キャストの正徳五年(1715)青面金剛像です。ショケラ持ち、ニ童子、三猿、ニ夜叉、ニ仁王付です。特に仁王というのが気に入りました。青面金剛の経軌(陀羅尼集経・第九)では四臂三眼ニ鬼ニ童子四夜叉のようですがメンバーは多ければ多いほど功徳もあるでしょう。 右端がこの地区最古の天和三年(1683)の三猿文字塔です。

6-2大森変電所前の庚申塔

長楽寺から県道4号千葉竜ヶ崎線を南下します。およそ700mほどで左手に東電の変電所が見えてきます。その県道をはさんで右手に四基の庚申塔です。 左から嘉永五年(1852)、寛政七年(1795)、文化九年(1812)、文化二年(1819)です。丁度小さな川を渡った村境の位置にあります。左から2番目の合掌型正面金剛は宝輪は右手に持ち左手第1手はクルスの様な法具をもっています。

6-3鹿黒公民館前石仏

公民館の裏手の道沿いにこのように並んでいます。左手は明治三十一年の馬頭観音文字塔です。写真中央に見えるのは正徳四年(1714)刻像馬頭観音です。その隣が十九夜塔、大六天となっています。馬頭観音は馬乗りではありませんが三面ニ臂で状態のよいものです。

この石仏の側に安政四年(1857)の咳神様が鎮座しています。すっきりとして霊験あらたかそうです。 尚、この公民館がある四つ角に「南 庚申・・」と刻んだ道標が立っています。 「西 和泉・小倉道」と読めます。 6-4鹿黒火の見下の石仏群 公民館の先に火の見が見えます。その三角状の土地にこのように21体並んでいます。テキストには貞享三年(1686)等十九夜塔8基、庚申塔7基、元禄三年(1690)刻像二十三夜塔、享和二年(1802)子安塔、花見地蔵1基の18体となっています。 これは花見地蔵です。(欠)見堂の文字が読み取れます。 ところで石仏を数えてみると21体あり、うち像容不明2体でした。差し引きすると1体合いませんがこれは下の二十三夜文字塔が記載省略されていたからでしょう。この二十三夜文字塔左側には「左 江戸みち」と読めます。道標を兼ねていたようです。 6-5鹿黒八幡宮の石祠 400メートルほど道なりに進むと右手角に共同墓地があります。その角の道を右に下ってすぐ左手に鳥居が見えます。階段を登っていけば鹿黒八幡宮です。社の左手奥に石碑が点在しています。このあたりあたりは伊勢講が盛んだったのか大正10年、昭和30年、39年、41年、43年、平成6年の伊勢講関係石碑「天照皇太神宮(内宮)豊受大神宮(外宮)」を刻んだものが点在しています。足元にご注意ください。 ここでのハイライトは正徳三年(1713)天満宮石祠です。しっかりした道真公の像が拝めます。この時代も多分子供の学問上達をお祈りされてきたのでしょう。続いてこちら。 稲荷大明神の石祠です。鳥居の前に阿吽の狛狐がいます。思わずカワユイといってしまいました。この境内には大杉神社・足尾山・金毘羅山石碑等があり民俗信仰が盛んです。こちらを後に元の道を共同墓地まで戻ります。

6-6.鹿黒共同墓地の十九夜塔

墓地を上ると通路沿いに下のように四体の十九夜塔です。左奥から延宝五年(1677)元禄五年(1692)寛文十年(1670)元文二年(1737)と江戸時代の古いものが多い。

6-7鹿黒三叉路入口の石仏 来た道を戻り県道4号に突き当たる。道路向かいのミラーの先に細い道が民家に入るように見えている。この角に石仏が草に埋もれていました。地場の方に聞けば「昔はこのあたりにあった筈だが・・」とのこと、勘を頼りに雑草が覆っている隘路を掻き分け見事発見。 下の写真で左奥が道路からの入口で嘉永七年(1854)文字馬頭観音です。

その横は右の二体の馬頭観音の台座と思われます。天明四年(1784)天明二年(1782)の馬頭観音です。台座から下ろされて草むらに横たわって埋もれていました。 その奥の草むらをなぎ倒し見つけたのが下の写真左に見える嘉永四年(1851)の出羽三山塔供養塔です。 三夜塔とは何じゃ?と思いましたが二十三夜塔のことだそうで「丙午弘■」となっていたので弘化三年(1846)と読んでみました。もたれかかっているのは天保十一年(1840)の猿田彦大神の文字庚申塔でした。疲れた! 本日はこれにてお終い。