2023/02/27

24.北総石仏 白井Ⅱ

前回は西白井駅から風間街道を国道16号富塚交差点までやって来ました。今回は歓喜天という全国でも非常に稀な石仏と出会えます。 24-1.富塚・鳥見神社近傍の不動明王道標 富塚の交差点手前で県道280号白井流山線の交差点があります。ここを左折し50m程行くと左に鳥見神社へ行く道があります。この道をとって50mほど行った四辻の左の民家ブロック塀に不動明王の道標があります。安政三年(1856)造立で正面は不動明王坐像の下に「右 成田山道」、右側面に「右 きを浪し道」左側面に「月参 當村 講中」と彫られています。成田詣の人々がこの不動さんを横目に通り過ぎた時代が目に浮かぶようです。 ここを300m程直進すれば鳥見神社がある辻に出ます。 24-2.富塚・鳥見神社の庚申塔群 訪問日が年末のため正面の鳥居に正月の準備がされていました。寛政七年(1795)一の鳥居である明神鳥居から参道が伸びています。鳥居をくぐると左側に庚申塔など17基が並んでいます。奥には二の鳥居が見えています。社奥から参道入口にむけて見ると、庚申塔の並びはこのように並んでいます。写真左=入り口から5基の文字庚申塔が年代順に並び、次に青面金剛王・文字塔が3基、青面金剛刻像3基、道標を兼ねた巡拝塔1基、馬頭観音刻像1基、青面金剛刻像塔3基、種子入文字庚申塔1基と並んでいます。下の写真は「切られ庚申」と呼ばれる文字庚申塔で右側面に切り欠きがあります。宝永三年(1706)「奉造立庚申二世安楽之所」と刻まれ上部にキリーク・サ・サクの弥陀三尊種子を頂く三猿庚申塔です。「富塚は銚子から日本橋へ鮮魚を運ぶ街道の中途であった。ある晩、鮮魚師(なまし)が輸送中に、怨霊ならぬ一つの火の玉に襲われ、闇雲に一刀を振り下ろしたところこの石塔に切りつけ、今にその刃跡が残りこの名があるといわれている」と白井町役場発行のしろいの散歩道に書かれています。 居並ぶ石仏群の中で興味あるものを記してみます。これは明和六年(1769)六臂合掌青面金剛ですが、冠する蛇のとぐろがやけに目に付きます。上の写真は宝暦七年(1757)の西国秩父坂東百箇所巡礼塔です。上部に聖観音像らしきものをいただき右側面「みぎ 江と道」左側面「ひだり さくば道」と刻まれたしっかりした道標です。どのあたりにあったんでしょう? これだけの庚申塔があると塔下部にある三猿が気になります。変化のあるものを3つ載せておきます。 そしていよいよ真打の登場です。その前に全国区でも貴重な歓喜天石仏の口上を見ておきましょう。明和八年(1771)近隣の西輪寺客殿造り替え時に造立された由緒ある石仏です。祠の中におられるので扉をあけてから拝観します。写真解説には載っていませんが「かんぎてん」は韋駄天の兄弟だそうです。又、お約束では一体が足の親指でもう一体の足を踏んでいるそうですが、押さえているほうが観音の化身といわれています。さて、どちらでしょう。 以上が参道左側の主な石仏群でした。その他、昭和6年・33年出羽三山塔、平成3年大杉大明神碑、参道右側には明治33年御嶽神社・三峯山神社・八海山神社碑、戸隠神社碑などの新しい民間信仰碑も盛り沢山です。 平成12年の二の鳥居をくぐれば鳥見神社本殿があります。その造りの豪華さには目を見張ります。上の写真で口上を読んでからご覧になったほうが有難味が増しますよ。これが一木で彫りだした庇柱です。豪華!!! 下の写真は本殿壁面の西側羽目板、二十四孝の「唐夫人」の図ですが内容を知らずに見ると豊かな乳房にドッキリです。北面「郭巨」はこういう図柄です。うまく写っていませんが想像力で補ってください。尚、二十四孝について調べるならWikipediaがわかり易いです。このあたりで鳥見神社を後にしましょう。 24-3.折立T字路馬頭塚 鳥見神社から国道16号富塚交差点まで戻ります。歩道橋のある16号を横切り更に風間街道を150mほど進むと、右手にT字路の角に庚申塔や馬頭尊が5基ほど固まっています。道路側に向いて上のように並んでいます。左から二つ目は文化二年(1805)馬頭尊ですが土中に埋まっています。石祠も汚れていて読めません。可哀想。この馬頭さんは「南無馬頭観世音」の碑文が珍しく、蹄鉄をお供えしているのが台石の「運送連中」とマッチしています。又、側面に「富塚 折立 藤ケ谷」と読めるので道標になっていたようです。文政十三年(1830)庚申塔を横目に右折すると延命寺に続く道となります。 24-4.折立・来迎寺の十九夜塔 畑中の道をくねくねと曲がりながら約300m、不安になる頃に立派な天台宗無量山最勝院来迎寺が出現します。本堂左奥に見える紅白幟にはしろい七福神の布袋尊が祀られています。七福神巡りの方々が入口右手のベンチで休んでいます。しかし、一般の方々にとって石仏は気付かれないかもしれません。こちらの写真で分かるように、正面入口の享和元年(1801)六地蔵の後ろに無縁塔として全ての石仏が寄せ集められています。多分、境内整理の際に一括して無縁塔に集約されたようです。残念ですが十九夜塔・子安塔・経典供養塔など信仰対象としての石仏群が全てこの無縁塔に埋め込まれてしまいました。気落ちしながらも探していくことにします。こちらは左が明和二年(1765)右が元文三年(1738)の十九夜如意輪観音塔です。こちらは左が頭部に弥陀三尊の種子を刻んだ享保二十一年(1736)結衆千百十三人供養塔、右が文化十一年(1814)観音経一萬巻供養塔です。こちらの写真は明治15年の子安塔ですが、良くみると乳房が削り取られています。乳の出が良くなるおまじないとして母親達が煎じて飲んできたのでしょう。私は十九夜塔など他に7基ほど見つけましたが、興味ある方はもっと発見できるかもしれませんね。又、境内左には白井市天然記念物に指定された「火伏せの公孫樹」がそびえています。左手の集会所前にも昭和37年三界萬霊塔の地藏さんもおられますが、無縁仏と信仰石仏が雑居されているのは「どうもなあ」というのが私の正直な気持です。唯、来迎寺の境内は写真で分かるように明るくてベンチもあり雰囲気が良くてまさにテンプルパークという感じです。駐車場の入口向かいも5月頃は菖蒲園になるようです。 24-5.折立・熊野神社の庚申塔 駐車場前道路を右に取り県道280号白井流山線に出て、右に曲がれば国道16号に出ます。国道を渡り16号沿いに南下します。国道の北側にあるメモリアルパーク大野屋の墓石展示場が目印です。この地点手前で国道から斜めに未舗装の道が分かれます。熊野神社は16号が整備されるにあたり国道予定地から寺持山林に移設されたため、この行き止まり道路以外に訪れる道はない敷地に移されました。車で行かれる際は注意が必要です。30mも行くと鳥居の両脇に庚申塔の並んだ熊野神社があります。正面左手に文字庚申塔2基・青面金剛像塔2基がならび、右手に文字庚申塔3基・青面金剛像塔1基が並んでいます。 コンクリートの参道脇に出羽三山塔4基や巡礼塔も並んでいます。気になる石仏を紹介します。 上の写真左から2番目の文化十三年(1816)青面金剛文字三猿塔ですが、右側面に「南 鎌谷 所沢道」の表示がある庚申道標となっています。(所沢は白井にある字名です)そして三猿もひょうきんだと思いませんか?こちらは左側に並んでいるうちの元禄十三年(1700)二手合掌型青面金剛塔で松戸型と呼ばれる庚申像塔です。清水長輝氏「庚申塔の研究」や房州石造文化財研究会横田甲一氏の研究により、このタイプの青面金剛像は元禄10年から18年間で同じ作家により15基が像立されたと推定される庚申塔の一つと判明しています。昭和50年代、石仏界の話題になった庚申塔ということになります。参考に松戸型元禄十六年(1703)松戸市古ケ崎鵜森稲荷の青面金剛塔を載せておきます。(房総の石仏百選の一つです)又、左端には昭和56年の文字庚申塔がこんな感じで建っています。境内の参道右手にどっしりとした嘉永六年(1853)角柱型の坂東秩父西国巡拝塔がありますが、側面は出羽三山の供養塔にもなっています。人気のない簡素な神社ですが、本殿を拝観すると簡素ながらも庇柱や開戸等に細かい彫刻を見出します。小ぶりの庇柱の龍は、及ばずながら富塚・鳥見神社の庇柱一木の浮き彫り龍を思い出させます。本殿の周囲にも石祠が並んでいます。左側には神使狐2体が木祠に並んでいます。隣は延享四年(1747)疱瘡大権現石祠です。駒形大明神・東大明神・山王大権現と続いています。 本殿右には普門品供養石祠・小御岳石尊大権現碑・浅間大菩薩普門品一万巻供養塔が並んでいます。これだけの石仏石祠群が点在していた移設前の熊野神社はどんな雰囲気だったのか、大変惹かれますね。

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