2009/03/18

29.北総石仏 白井Ⅴ

愛宕神社から西に向かうと七次台団地です。県道191号線バス通りを1.5km南下すれば北総線西白井駅となりますが、今回は愛宕神社から引き返してNo.26の地蔵堂(大集会所)まで戻ります。ここから集落の縁沿いに700mほど進めば宝幼稚園長楽寺のある道に出て右に切通のような坂道を登ります。 29-1長楽寺墓地向かいの馬頭塚 切通状の坂の右手に石造物調査報告に出ていない馬頭塚がありました。いつもは車で通り過ぎてしまい石段があるのに気付きませんでした。全部で10基、文字馬頭9基と馬頭観音像塔1基です。左から明治42年・昭和16年・年不明馬印付正面剥落の文字馬頭・明和三年(1766)馬頭観音刻像・元治元年(1864)・昭和18年・昭和32年・享和元年(1801)・昭和63年・大正15年となります。拡大して見ると写真中央は元治元年馬頭観世音で左が馬頭観音刻像です。この塚の後ろは潅木のなかに畜生塔婆が何本か立ててありました。ペットの供養なのでしょうか?29-2.長楽寺墓地の庚申塔 坂道を上りきる手前を左に入ると長楽寺の奥に連なる墓地となります。整備されて砂利道が明るい墓地の中を貫いています。砂利道を入ってすぐ左側に延享二年(1745)六十六部供養塔がぽつんと建っています。右上部の破損が痛々しそうですね。更に墓地を進むと右手の整備されたU家墓地の前面にぽつんと安政五年(1858)「南無阿弥陀仏」石塔が建っています。どういう謂れでしょうか気になるところです。更に進むと左に彫の良い寳永七年(1710)六臂合掌青面金剛が墓地全体をガードするように起っています。頭部に種子を二つ、アーンク(胎蔵界大日如来)とバーンク(金剛界大日如来)を頂いていて如何にも強そうです。29-3長楽寺の石仏 墓地から長楽寺まで戻り、正面の参道から入ります。参道入口に享保六年(1721)六地蔵が立っています。かなり風化していて石造物調査報告に書かれていた「おまつ おたけ・・・」など女人達の名前は読めませんでした。でも、ほとんどすべての女性名が「お」で始まる三文字銘なので語呂合わせみたいで可笑しかったですね。おせん・おたく・おさい・おつる・おつま・おくに・おかよ・おはま・おきん・おみや などなど。嘉永三年(1850)の延命地藏さんもおられます。本堂正面右手に三面大黒様がおられます。失礼ながら漫画「黒いセールスマン」を想い出させる風貌です。解説もお読みください。次に本堂左手は恵比寿さまです。大黒様の兄弟かなと思わせるほど体型が似ています。解説もご一緒にお読みください。29-4七次(ななつぎ)・天神八幡宮の庚申塔 長命寺の本堂を左に抜けると天神八幡宮脇の小道です。その小道の八幡宮に沿って庚申塔が7基ならんでいます。左から元文四年(1739)六臂ショケラ持青面金剛塔、文化八年(1811)青面金剛文字塔、安永二年(1773)六臂合掌青面金剛塔、次に文政十年(1827)青面金剛文字塔となっています。その後に天保十年(1839)文字塔、嘉永三年(1850)六臂ショケラ持青面金剛塔、寛政十二年(1800)文字塔が写真のように並んでいます。なっています。面白い三猿を載せておきますので、どの石塔が該当するでしょうか? 順番が逆になりましたが、こちらが天神八幡神社の本殿です。源頼朝の愛馬生月(いけづき)がまだ地元で八幡と呼ばれた頃、此辺りで遊んでいたとも伝えられ、その縁で後年になって生月が八幡神社に祀られ延宝五年(1677)天神社と合祀された由緒があります。八幡神社で馬を直接の祭神とする全国的にも極めて珍しい神社です。(白井郷土資料館発行「白井の伝説と文化財」より引用) そして此鳥居に到る参道の入口には明和九年(1772)二十三夜塔が参道中央にありました。種子サクを刻んだ勢至菩薩ですが、石造物調査報告での聖観音像の記載は誤記でしょう。 さて、見た目にはつましい本社ですが境内石造物は結構意味のあるものが並んでいます。本社の両脇にならんでいる灯篭は「斎講中」いわゆる斎念仏=時念仏の信仰集団が寄進したものです。利根川流域は同時に多くの念仏講が盛行した地域で、時(斎)念仏・百堂念仏・寒念仏・夏念仏・日記念仏・各(隔)夜念仏・一億念仏・千日念仏・二千日念仏・二百日念仏・常念仏・四十八夜念仏・十四日・十五日・十六日念仏などの念仏塔が残されています。(榎本正三氏の「女人哀歓」より引用)このうち時念仏塔が最も多いようです。 写真の常夜燈は年不明ですが、写真の左棹部に「當村時斎講中」と刻まれています。日本石仏事典によると「トキに”斎”の字を当て、仏教では食事のことをさすから食事を伴った念仏講とも解せられ仏前における共同飲食に特別な意味が含まれていたかもしれない」と解説されています。又、時念仏に表示される種子像容のすべてが湯殿山本地の大日如来であるところから此地方の時念仏の源流は湯殿山(修験)に求められるとの解説もありました。一つ賢くなりました。 本社の後ろにも7基の石仏です、色々な像塔が集まっておられます。こちらは右から3基目の石仏です。頭部種子がアーンクで羽黒山供養とかかれていますから胎蔵界大日如来像でしょう。明和九年(1772)からここに座っておられたのでしょうか。右隣は下の写真ような石仏でした。今後の柏市を巡ると良く出てくると思います。文政二年(1819)の正徳太子像です。 左から2基目も明治29年(1896)の正徳太子です。ちょっと雰囲気が違いますが文政のほうが若々しいようですね。7基の中央は下の写真のような湯殿山供養塔で天保十五年(1844)です。右端には天保六年(1835)足尾山石祠がありましたが、足尾山大権現についての信仰勉強はまた別の機会としましょう。 29-5.七次の大日神社の石仏 天神八幡神社の隣がこの大日神社ですが、本当はこの大日神社がメインで天神八幡神社は居候の立場です。延宝五年(1677)に七次村の産土様(うぶすな)として勧請されたようです。秘仏石造金剛界大日如来が左右逆手の智恵印を結んでいる写真と神社の詳しい解説が「白井の文化遺産史2004」(鈴木普二男氏著)に載っています。 写真のようにこちらも盛り沢山です。入口には天保五年(1834)手水石、慶応二年(1866)石造鳥居、昭和44年明治百年記念富士塚上狛犬などが見えます。本殿左には雨囲いの中に大日如来石塔が3基、左から明治16年、天保十年(1839)、寛政五年(1793)とならんでいます。右側は文政五年(1822)大杉大明神石祠です。今まで話題にしなかったのですが、この大杉大明神は利根川流域ではポピュラーな神様ですが全国的にはローカルな神様なのでご存知でない方もおられるかも知れません。概略は大杉神社を参考にしてください。北総では疱瘡神としてのご利益から「これは大杉明神、悪魔を祓ってヨイヤサ」とアンバ囃で疫病送りをされた歴史があるようです。(榎本正三氏著「赤の民俗」) 鳥居をくぐって左側の石段を登ったところにも同じような雨囲いに天保七年(1836)妙正大明神がおられます。こちらも疱瘡神のご利益で名高い神様です。日蓮宗系の疱瘡神で千葉県市川市北方(ぼっけ)の日蓮宗妙正寺の宝暦三年(1753)妙正大明神縁起に由来するところが大きいと書かれています。造塔と同時期の天保七年(1836)「妙正池の記」「江戸名所國絵」など関係資料が著されています。(以上「赤の民俗」から房州石造文化財研究会綿貫氏論文引用を参考) 大日神社は周りには庚申塔や現代の出羽三山塔がまだまだ沢山建てられています。万延元年(1860)の文字庚申は下部の三猿がちょっと非対称なので載せておきます。 今回はこれまでとしましょう。下の地図で長楽寺先にある調整池には冬になると白鳥が飛来するそうです。絶好の散歩コースと思います。ここから北総線西白井駅へは南西に1kmほど、長楽寺の四つ角から南東へ1kmで白井駅となります。

2009/03/10

28E.多摩石仏 保谷から西武柳沢Ⅱ

今回の遠足コースには石仏としては異色な岩船地藏の拝観が入ります。では前回からの続きで都道36号保谷志木線の福祉会館入口交差点から出発します。 28E-1如意輪寺の石仏群 交差点を過ぎてまもなく右手に如意輪寺の山門が見えます。山門の写真左端に見える白壁は戦没者慰霊地蔵尊(昭和38年)が祀られています。その隣に小さい木堂が並んでいます。その中には後ほど解説板④番で説明される宝暦四年(1754)青面金剛塔が収められています。山門を入り右手の墓地へ向かう手前角に三体の石仏と解説版があります。詳しい解説が載っているのでじっくりお読みください。手前右から①番宝暦三年(1753)六十六部廻國塔、②番元禄十四年(1701)笠付合掌型青面金剛塔、③番寛政四年(1792)西国坂東秩父百観音巡拝塔が並んでいます。地藏を刻像している巡拝塔はなかなかお目にかかれません。そして解説④番の青面金剛塔は先ほどの戦没者慰霊地藏の隣のお堂に祀られていた青面金剛塔です。この石仏の斜め前には三界萬霊と表示のある安永八年(1779)地藏を主尊に六地蔵が並んでいます。更に墓地入口の角にも石仏がお迎えです。左から享保十七年丸彫り地藏、元禄十二年(1699)延命?地藏、天保四年(1833)文字馬頭観世音がお立ち台におられます。更に墓地に進むとさぞかし立派な墓標仏もおられるとは思いますが、石仏信人の方針によりこのあたりで如意輪寺さんはおしまいにしましょう。 28E-2宝樹院の弁財天 如意輪寺を出て泉小学校を過ぎて次の信号を右折し、次の角をまっすぐ南下すれば右手に宝樹院の参道がある。参道の右手に手水舎があり蛇口に弁才天がおられます。剣と宝珠を持ち頭上の鳥居は弁才天のお約束ですが、彫が素朴でして失礼ながらちょっと期待はずれの気がして今はその当時の不遜な気持を反省しながら書き綴っております。 お寺の正面はこんな具合です。本堂右の赤い幟に垣間見えるのは頭デッカチ(頭が大きくて賢明)現代の弘法大師像であります。本堂横に六地蔵と下の写真のような宝暦八年(1758)四国西国坂東秩父巡拝塔があります。この巡拝塔はキリーク・サ・サクの弥陀三尊を頭部に刻み正面も現當為二世安楽とご利益の期待が一心に込められているようです。 宝樹院を出て南下を続けます。 
  28E-3榎庚申堂の青面金剛 
泉1・2丁目と本町1丁目の交差する三叉路に榎庚申堂があります。庚申堂は新しく堂内に折鶴もあって大切にされているのが分かります。米軍空襲で向かって右の上・下手と左の下手の3本の手を失っています。青面金剛の丸彫りは珍しく、それだけに傷痍軍人ならぬ傷痍金剛に哀れを誘います。詳しい解説はこちらをご覧ください。 28E-4岩船地藏
榎庚申堂から一つ南の角を左折し、信号を越して行くと右手に豆腐屋があります。その前の平野氏住宅のブロック塀の並びに岩船地藏が祀られています。享保四年(1719)造立で舟形の台石に乗っています。この時期に栃木県岩舟町高勝寺の岩船山地藏念仏と称して大行列で村から村へ送られた宗教現象に由来してこの時期だけに建立されました。流行した地域・時期限定地藏であります。詳しい説明は解説板をご覧ください。これと似た現象は利根川流域で見られる大杉神社・アンバ様の巡回と思います。詳しいことは北総石仏で改めて調べてみようと思います。 
  28E-5西武柳沢駅東信号の庚申塔 
岩船地藏を後に都道36号の信号に出て南下します。新青梅街道を横切り富士街道の交差点西武柳沢駅東の信号まで来ます。角に庚申塔と廻國塔が祀られているお堂があります。正面は金属のアーチと門灯がかっこいいしお花も供えられて大切にされていますね。右の青面金剛は笠付三面合掌型と思われますが磨耗して像容がはっきりしません。宝永六年(1709)造立です。六十六部廻國塔は享保五年(1720)で頭部にキリーク・サ・サクの弥陀三尊種子を頂いています。 
  28E-6富士街道の六地藏石幢 
この信号を右折すれば西武柳沢駅前商店街の通りです。駅の入口を通り過ぎて商店街を通り抜ければ商店街入口アーチの先、左手踏み切りのところに六地蔵石幢があります。踏み切りを渡る道は所沢から富士街道と交差して深大寺に向かう深大寺道で武蔵野を横切る主要道路だったそうです。六角柱の上部に六地蔵、幢身は「東ハねりま道・・」と道標になっています。寛政七年(1795)の造立です。当時の賑わいはどんなだったのでしょうか。 以上でひとまず、多摩の遠足を終えて西武新宿線で帰ることにしましょう。