2009/04/24

34.北総石仏 白井Ⅹ

前回は名内(なうち)の粟島神社までやって来ました。村内の道を南下すれば白井第二工業団地に入ります。工業団地の広い道路に出る手前角に名内の鳥見神社があります。今回はスポットで白井工業団地周辺を見てみます。
34-1.名内の鳥見神社の庚申塔
この神社を一見してデジャヴ(既視感)に襲われました。正面鳥居の左、道路沿いに8基の庚申塔群、鳥居の右手に小さな石祠2基、その奥に3基の日露戦没者記念碑や伊勢講碑。境内にも三山塔や伊勢講碑、そして本殿近くに小さな石祠2基などです。典型的な北総集落内神社の舞台装置です。取り立てて特色のある神社ではありませんが、いつか来たような安心感に包まれました。チェックしてみましょう。 まず、明治44年の神明鳥居があります。神明鳥居は伊勢内宮鳥居が典型ですが、笠木が一直線・貫が柱の内側にとどまり・堀立柱で転び(内傾斜)のない形です。柱の脚元は台石に根巻がついています。勿論、石仏信心にとっては付け焼刃の受け売り知識であります。その奥にも稚児柱の付いた両部鳥居が控えています。鳥居の左に7基の庚申塔と1基の出羽三山塔です。左から大正15年文字庚申塔、元禄七年(1694)六臂合掌青面金剛塔、文政四年(1821)文字庚申塔、文化十三年(1816)文字庚申塔、文政十年(1827)文字庚申塔と続き、次に下の写真享保四年(1719)六臂ショケラ持青面金剛塔、延享元年(1744)三猿庚申塔、明治15年出羽三山塔と並びます。 変わったお猿さんはなかったのですがこの右端のお猿さんは寝そべっているのかな? 鳥居右の石祠は安永三年(1774)不明石祠、文久五年(1865)疱瘡大明神石祠が並んでいます。境内にはいると左に大正11年出羽三山塔ですが「国幣小社出羽神社、官幣大社月山神社、国幣小社湯殿神社」となっています。明治・大正の三山塔では「延喜式」の神名帳に記載された格付である格式=神祇官から幣帛を奉る官幣社と地方官から奉る国幣社を表示した碑が盛んになります。次に敷石記念碑と昭和56年三山塔が並んでいます。この碑に参道を挟んで伊勢参宮太々記念碑2基が向かい合っています。他に、明治4年駒形明神石祠や嘉永五年(1852)大六天石祠が置かれています。第六天は日本石仏事典第二版で「民間信仰としては除災招福の神仏として祀られ、天というのは仏教天部の神仏と考えられたとも思われ・・・・解明が待たれる」といささか頼りなげに記載されています。ウィキペディアで大六天を見ておきましょう。
  34-2.名内の庚申塚
鳥見神社から白井第二工業団地へ南下します。左にロイヤルクリーニング工場が見えればその並び、歩道に沿って柵に囲まれた庚申塔塚があります。風化が進んでいて本当に読み難いですね。特に白い苔が付いた石仏は手に負えないですね。愚痴をやめて左から記載しておきます。天保二年(1831)・嘉永四年(1851)文字庚申塔、寛政九年(1797)文字青面金剛王塔、明治5年(1872)道祖神、明治10年自然石型文字庚申塔、明治17年文字庚申塔となっています。道祖神の台石に三猿がついているらしいのですがチェックし忘れました。ここでは一番古い寛政の庚申塔を載せておきますが碑面が読めるでしょうか?ひとまず名内を後にして白井第一工業団地に向かいます。白井第一工業団地は第二工業団地の西方にあります。
  34-3.一億のゴンベ稲荷
白井第一工業団地内に白井市公民センターがあります。センターの南道路沿いに権兵衛稲荷社の赤い幟が沢山立っています。実はゴンベ稲荷に目立った石造物はないのですが、工業団地の開発でやっと落ち着いた安住の地をちょっとの拝見したくて寄ってみました。真新しい明神鳥居は平成20年11月建立の新築でした。由来と神使に囲まれた写真をどうぞ。34-4.名内橋道・坂上の石碑
名内橋道と呼ばれる今井・沼南手賀の丘公園へ向かう道路の左、高塚に盛った一隅に石碑が3基あります。写真右が天保五年(1834)駒形・石尊大権現普門品一万巻供養塔で左は大正元年その再建碑です。並立させているとは念の入ったことです。天保碑は道標を兼ねて「北 と里で 南 鎌ケ谷 西 松戸 道」などと表示があります。頭部種子はサ=観音を刻んでいるようです。この右手にも大正10年大山太々神楽記念碑があります。 34-5.名内橋道坂下の馬頭塚
坂上から坂下へ今井方向へ200mほど北上すれば、右手民家の門に並んで元は馬頭塚と思われる跡があります。4基の文字馬頭観世音塔が散在しています。手前に大正13年、奥に左から明治28年駒形・明治21年自然石型・明治25年駒型馬頭観世音塔となります。低いながら石段もあり線香立石などもあることから往時は盛んに祀られていたのでしょう。 
  34-6.風間街道・中木戸の馬頭観音(追加)
2月7日にアップした23-3中木戸の諏訪神社へ向かう途中に変わった形の馬頭観音があります。風間街道を北上しマルエイという生鮮スーパーへ向かうT字路の信号があります。その信号先左側に風間街道という青い道路標示板が立っていますが、その向かいの荒地にぽつねんと立っています。安政六年(1859)の馬頭観音です。十一月吉日に宇田川弥兵ヱさん(石造物調査書は孫兵ヱと誤記)が建立しています。頭部に馬頭があり八臂の半跏趺坐というのでしょうか立膝です。左には武州比企郡上岡村と刻まれています。この地名については他出しており勉強の必要がありそうです。風化が進んでいて惜しいのですが珍しい像容の馬頭観音といえます。余談ですが、同じ宇田川弥兵ヱさんが房総百仏でも掲載されている歯吹如来(上総國千田村称念寺から勧請したと思われる)珍しい石仏を同じ時期に建立しているようですが、私は未見です。気長に探して、見つけたらアップしましょう。 今回はひとまず、これにて終了です。34-6中木戸の馬頭観音(追加分)の地図表示は、西白井駅北西に位置するのでずっと左下までマウスドラッグしてください。

2009/04/18

33.北総石仏 白井Ⅸ

前回は小名内の稲荷神社まで来ました。今回は桜堤で有名な今井地区と名内地区集落を巡ります。今回もちょっと変わった石造物にお目にかかれます。
33-1.今井・稲荷神社の庚申塔
白井から白井工業団地へ向かう道路を白井市の外れまで進むと今井堤を横切ります。此処は春、2Kmに亘って淡い色の桜のトンネルが出現する名所です。今井堤に出る手前の道を右に入れば今井集落の稲荷神社の森が左手にあります。拝殿に通ずる小道に庚申塔など13基の石仏です。左から見ていきましょう。まず、昭和三年「御大典記念 庚申塔」、頭部に種子バク・釈迦如来像を戴く正徳二年(1712)六十六部廻國塔、明治39年文字庚申塔、文久二年(1737)六臂ショケラ持青面金剛となっています。像塔は写真を載せておきましょう。次は寛政七年(1795)青面金剛王、文化七年(1810)青面金剛尊、明和七年(1770)六臂合掌青面金剛塔、文政九年(1826)文字庚申塔となっています。明和七年青面金剛塔の頭部蛇とぐろ巻きははっきりと刻まれていました。恒例の文字塔・面白い三猿も載せておきます。左のお猿さんは後ろ向き・上向き「いわザル」でしょうか。中央はメス猿でしょう乳房があるように見えますが、これにお尻を向けているポーズも変ですねえ。 次は天明二年(1782)青面金剛王塔です。その隣から此写真となります。明治20年文字庚申塔、延宝八年(1680)六臂合掌青面金剛塔、宝永二年(1705)庚申三猿塔、平成2年庚申塔となります。上の写真の延宝八年は市内でも結構古いものです。次の三猿塔も良く見かけるようです。この先は稲荷神社に続きます。境内にぽつぽつと石造物があります。ここにも明和四年疱瘡紳石祠がありました。病気は庶民農民にとって本当に切実な問題だったのですねえ。榎本正三著「赤の民俗 利根川流域の疱瘡神」にも載っていますが、北総から利根川を越えた取手市には男女二紳刻像の特殊な疱瘡神塔が18基も遺存しています。参考に取手・青柳八幡神社の刻像疱瘡神二基を載せておきます。左が天保六年(1809)で男神が幣束を肩に担ぎ立ち姿、女神は長髪で皿椀物を持ち中央に三玉大明神と記されています。右は天保三年(1806)で上部に二神坐像を刻み牛蒡締め状の注連縄がはっきりと出ていて、下部には疱瘡神 東坪中と表示されています。利根川を越えただけでこれほど信仰モニュメントに違い出てくるとは、面白いし又不思議でもあります。
  33-2.今井の青年館の石仏
稲荷神社から500mほど東進するとバス停今井青年館があり、白井第3分団今井消防小屋の隣に青年館があります。入口左の大師堂の陰になって一見して石仏なぞ見えませんが、一歩中に入ると写真のように石仏アワアワ状態になります。7基の石塔5基の石祠等が一列にならんでいます。露天のために傷んでいるものが多いのですが、結構特色のあるものが多いんですね。では、左から寛政六年(1792)金剛界大日如来、3基続いて明和七年(1770)・享和二年(1717)・文久二年(1737)十九夜塔が並び石仏隆盛の幕開けを感じさせます。続いて天保十一年(1840)二十三夜文字塔が並び次に2基の元禄十三年(1697)・年不明十九夜塔が続きます。上の写真の子安観音石祠は女人講中十四人で造立されましたが刻像石祠は初見ですが珍しいものです。次から4基の石祠石塔が続きます。文政十二年(1829)・嘉永五年(1852)待道大権現石祠、不明石祠、文化十三年(1816)十九夜塔です。待道権現(まつどごんげん)石祠は白井ではここだけと思われます。待道権現信仰は利根川を挟んだ茨城南部・千葉県北部の地域的流行紳で、十七日を祀り日とする婦人達の子安講であると石造物調査書に載っています。我孫子地区の調査時に多出すると思います。他にも新しい六地蔵の陰に傷みの激しい享和二年(1802)一石二体六地藏があります。大師像も文政八年(1825)・安政九年(1859)の2体あり文政期のものは地区内古手です。当地区では印西大師(4月1日~9日)、柏大師(5月1日~5日)、白井大師(10月1・2日)の大師参りが行われていると調査書に載っていますが今はどうでしょうか?興味のあるところです。 今井青年館バス停で道路の向こう側に「今井の水塚」の説明板があります。ついでに読んでおきましょう。 
  33-3.名内・東光院の石仏群 
今井青年館をあとにして更に400mほど東進、右に戻るようにして集落への道路を右折して道なりに進めば右手に東光院があります。寺前に広場があって縁の沿ってお堂や石仏が点在しています。夕暮れ時でくすんだように見えた石仏石塔ですが、「恐るべし石仏パワー」というのは大袈裟ですが調べると特色のある石仏が沢山あります。丁度檀家の集まりがあったようで、お断りしてから拝見させていただきました。唯、惜しいことに風化が進んでいて読み取りが難しく石造物調査書に頼るしかなかったですね。 では、写真左端から明治13年子安観音が祀られているお堂です。新しいので穏やかな感じの石仏でした。隣とのお堂の間に年不明十九夜如意輪石仏がおられます。隣のお堂には宝暦十一年(1761)薬師如来石仏がおられます。北総では、なかなかお目にかかれない貴重な石仏です。お前立ちの石仏が続けて並んでいますが何れも墓標仏なので気をつけましょう。続いて隣のお堂には年不明不動明王と大師像が仲良く同居しています。そしてこのお堂と隣の六地蔵の間に文化十二年(1815)の一億供養塔と呼ばれる道標を兼ねた名号塔が立っています。この塔はNo.31-1で紹介した徳本塔を立てた一億講中(徳本上人の當地元信仰集団)の造立になるものです。「右 かたやま ぎょうとく みち 左 しろい いんざい みち」と刻まれ名内橋におかれたであろう道標でもあります。ならば、もっと目に付きやすい所に置かれたほうが引き立つのですが、惜しい。六地蔵は安永二年(1773)の造立です。写真で右端、六地蔵の陰になる位置に3基の石塔です。左から文久二年(1862)、天保二年(1831)の出羽三山塔です。もちろん江戸末期なので湯殿山主尊となっています。右端は宝暦十一年(1761)六十六部廻國塔であります。何れもお堂の後ろに追いやられているのはちょっと可哀想ですね。 本堂の左手に進むと縁沿いに寛延三年(1750)十九夜如意輪塔が置かれています。そしてその続きのように、角に沿って7基の石仏が並んでいます。左から宝暦七年(1757)地藏塔ですが大乗妙典六十六部日本廻国と刻まれた廻國塔ですね。隣が延命地藏経三千巻と記された宝暦四年(1754)地藏坐像となっています。延命地藏は錫杖持ち立像が定番ですが座った地藏が面白いですね。そして隣は寛文十三年(1673)阿弥陀如来像で右手施無畏印・左手与願印を結んでいます。この石仏に関しては、鈴木普二男著「野ざらし紀行 白井の文化遺産史」で「名内碑・松平住右衛門への謎」で考究されています。この石像の願主の一人・松平住右衛門は名内村の領主でしたが、寛文二年(1662)に知行替えになって何年もたってから願主に名を連ねたのは謎だとした趣旨の一文です。オマケに石造物調査報告の銘文が不正確と思われたのか詳しい銘文を掲げられています。興味ある方は一読されると良いでしょう。但し、その要旨に関心をもたれるかどうかは別ですが。 となりの地藏と聖観音は墓碑で割愛します。次の2体は貞享五年(1688)・寛文十一年(1671)如意輪観音塔ですが、古い時代によくある念仏衆による設立で貞享碑は念仏数萬遍・寛文碑は二萬遍の奉唱と刻まれています。寛文像は六手で彫りもよく「昔の仕事はこうでなくちゃ」と職人仕事の成果でしょうか。如意輪観音信仰も、女人信仰に移行する前の時代は念仏衆の形で信仰心の篤さをを律儀に碑面に表していたことがわかります。一通り境内を見終わりました。帰りに本堂前の立派な十三仏供養塔をチェックしておきましょう。人の死後はこの星道を歩んで天に上るとの解説も読んでおきましょう。 
33-4.名内の粟島神社の石祠
東光院前を右手方向へ南下し二又では左をとって進めば200mほどで粟嶋神社が右手にあります。石段を登った境内がこの写真のように現れます。さて写真左手に見えるちっちゃな石鳥居はなんでしょう?正解は、潜り抜け鳥居と名づけられ「病難苦難を潜り抜けて無病息災」ご利益ある鳥居だそうです。拝殿左の木の陰で見えませんが3基の石祠が並んでいます。左から寛政三年(1791)稲荷大明神です。次は明治28年八坂神社石祠、一番奥が慶応四年(1868)粟島大明神石祠となっています。この石祠正面は大己貴命・粟島大明神・少彦名大命の三神連記となっています。又、石造物調査書の弘化四年(1847)淡島神碑はお堂の中に鎮座されていました。うっすらと「淡嶋大明神、観世音普門品」と読めますね。 淡島(粟島)信仰に関しては榎本正三著「女人哀歓-利根川べりの女人信仰」に詳しく、最近では「房総の石仏18号」で石田年子氏論文「利根川中・下流の淡島信仰-野田市を中心として」に淡島願人の図や千葉県下47箇所の淡島塔関係碑が詳説されています。白井市ではこの2基と神々廻(ししば)駒形神社で報告する1基の計3基が載っています。淡島神社淡島神についてはいつものようにリンクで確認しておいてください。 この粟島神社も昔は「あわしまさま(針供養)」として2月8日に裁縫生徒がお参りし、県下柏・市川・船橋・八千代・印旛一円から参詣客を集めたと言われています。往時の賑わいを取り戻すには潜り抜け鳥居ではちょっと無理、むしろ淡島信仰の解説を復活して参詣客に知ってもらうほうが為になると思いました。