2009/05/29

38E 江戸石仏 駒込から白山Ⅱ

前回と今回は遠足シリーズです。お江戸東京の東京メトロ南北線本駒込駅から始めます。本駒込にある三井住友銀行白山支店の角を曲がれば前回の光源寺にたどり着きます。光源寺へ行く手前に端泰寺が並んでいます。 38E-1端泰寺の石象 門柱に牡雌の石製の象が立っています。小ぶりの仁王さんが乗っている寺院はたまに見かけますが動物の象は珍しいですね。「摩耶夫人が白象が胎内に入る夢を見てお釈迦様を懐妊した」との故事に因んだもののようです。日本石仏図典では昭和20年代に若手彫刻家に頼んだものらしいと載っています。お隣が栄松院です。 38E-2栄松院の如意輪観音 参道左のモミジの木陰に涼しげな享保二年(1717)の六臂如意輪観音です。頭部に「日本廻国」と刻まれているので廻國塔ということになります。ちょっと珍しい石仏ですね。彫も良く数珠持ちの掌も綺麗に出ていますね。 栄松院を出て道路向こうの路地を奥に進めば海蔵寺の山門となります。 38E-3海蔵寺の虚空蔵菩薩 まっすぐに山門にはいり石畳を左に曲がると本堂に出ます。左生垣沿いに宝篋印塔と虚空蔵菩薩が佇んでいます。虚空蔵菩薩に涎掛けは似合わないと思うのですが、信者の方が信仰された結果と思えば部外者がとやかく言うのは余計なお世話なのでしょう。本堂前を左に折れると墓地ですが、入口に貞享四年(1687)の地蔵菩薩が立っておられます。こちらの涎掛けは似合っていますね?墓地の奥に進むと富士講の中興の祖、食行身禄(じきぎょうみろく)行者の墓地があります。木製の明神鳥居の奥に溶岩富士が聳え山頂に身禄の石碑が立っています。敷地内に十七夜元講の碑など興味を惹かれるものが多数あります。文京区の指定史跡で簡単な解説板がありますが、いつもの通りWikiで食行身禄を確認しておきましょう。又、墓地には無縁塔の上に持経観音や「なんじゃこれ」というのもあって石仏アワアワ?状態です。とはいうものの、大正三年に一緒に建立されたと思われる本堂前にある4mはあろうかという聖観音の線彫像碑と脇にある仏足石が貴重なようで載せておきましょう。 38E-4.長元寺の帝釈天石碑 山門まで戻り本郷通に出ればその角が長元寺です。テキストどおり庫裏内の庭木の下に石碑があります。お寺の方にことわってから拝観しましょう。旧テキストに「柴又題経寺(柴又帝釈天)の板本尊をそのまま石に彫り付けた版木様の帝釈天」と載っています。石仏では日蓮宗系の庚申塔に帝釈天と表示されるケースが多いのですが、像容で表示されるのは貴重です。「房総の石仏百選」で選ばれた松戸市紙敷の広龍寺門前の帝釈天庚申像塔をおまけに載せておきましょう。ちょっと違いますね。ついでなのでWikiで帝釈天の知識を仕入れておきましょう。柴又帝釈天の板本尊が見つかった日が庚申だったので帝釈天の縁日を庚申の日とするというのは説得力があるような無いような話ですが、それを定着させていった強引さが宗教の強さなのでしょう。ここでビックリしたのは石碑の前に本物そっくりの石犬が石碑を守っていたことでした。 38E-5浄心寺の布袋像 長元寺のお隣が浄心寺です。入口にどこからでも目立つ鮮やかな彩色のコンクリート製布袋像があります。実は入口だけでなく、参道の両脇もワンダーランドです。参道左は子育桜観音に因んで線刻観音像付歴代上人碑、変わった宝塔を乗っけた子育て観音、金ぴかの五輪塔、本堂手前に中曽根康弘氏寄贈の半鐘もあります。参道右手はガイドに記載の南無阿弥陀仏と彫られ軸部に「光明遍照 ・・」と観無量寿経からの偈文を刻んだ宝塔や、元禄二年(1689)の宝篋印塔、回向車が付いた現代風動物供養碑などが秩序無く並んでいます。矢張りこの雰囲気は訪れないと分からないでしょう。 38E-6大圓寺の庚申塔 先ほどの長元寺の本郷通を挟んだ向かいが向丘高校です。その北角を左折していくと高校裏が大円寺となります。山門正面のお堂が「ほうろく地藏」堂で中にかわらけのほうろく(炒り器)をかぶった享保四年(1719)のお地蔵様がおられます。八百屋お七に因む由緒は案内板とWikiをご覧ください。お目当ての庚申塔は本堂右横に3基並んでいます。とここまで書き進んできて・・・・何たることでしょう、庚申塔の写真データが消えています。右から元文五年(1740)「七福利生 云々」阿弥陀庚申塔、天明四年(1784)「金剛法力 云々」庚申塔などのメモしかありません。ショックですね。わーん。悲しい。(p_-) 38E-7根津神社の庚申塔 悔しい?ので庚申塔の根津神社へ回ります。実は「石仏地図手帖東京編」で記載のコースとなります。布袋様の浄心寺から本郷通を南に下るとすぐに向丘1丁目の交差点です。Y字路を左に日本医大方向へ坂を下ると右手に根津神社裏門です。入ってすぐ右の稲荷神社を過ぎると右手の参道にベンチなど休憩広場があります。庚申塔のブロックがその広場に置かれています。6基の庚申塔が六角形状コンクリートで固められいます。神社境内は広いのに窮屈そうで可哀想ですね。これらの内容は解説板を見て確認できますよ。まず、寛文六年(1668)青面金剛塔ですが全ての手を孔雀のように広げているのは可笑しいですね。足元の一猿二鶏も珍しい。尚、画面下の丸い石には五十貫目と刻まれた力石になっています。左回りにいくと年不明観音菩薩像庚申塔です。次は出っ張っているように見える元禄五年(1692)六臂ショケラ持青面金剛塔です。左側面に「南無阿弥陀佛」と刻まれています。次が延宝八年((1680)合掌型六手ショケラ持ち青面金剛塔です。その隣は都内でも古い寛永九年(1632)板碑型の初期文字庚申塔です。おしまいが宝永六年(1709)六手合掌型表面金剛塔となります。又、庚申群の隣は塞の大神碑という石仏が残っています。解説板もお読みください。 38E-8. 願行寺の三宝荒神 根津神社を正面入口から出て右折し坂を上って突き当たり、左へ東大地震研究所に沿っていけば願行寺の参道があります。参道突き当たりが不動堂です。その手前木陰に三寶荒神がおられます。民間信仰の神で仏典には説かれていないと石仏事典詳しくに載っています。佛・法・僧の三宝を守り不浄を嫌う神であることから台所・竈の神として信仰が厚いとか。北総では像塔で見ることが出来ないのではと思います。ちょっとした三宝荒神の解説はWikipediaでどうぞ。 不動堂の右手前に駒込・谷中で十九箇所造立された富士講碑の一つが残っています。嘉永二年(1849)の造立で希少なものです。その隣に天保十一年(1840)発願された「西国札所観音霊場塔」が迫ってきます。上部に十三仏を設置し下に三十三観音を配置、江戸に居ながらにして、西国巡礼が叶う有難い石仏群であります。十三仏は「冥界の審理にかかわる十三の仏陀と菩薩」云々の知識はWikiでどうぞ。尚、石仏手帖で「べそをかいたような聖観音坐像」と評された石仏はこちらです。一応、根津コースはこれくらいにしましょう。本郷通に出れば東京メトロ・東大前駅です。 ガイドブック「江戸・東京石仏ウォーキング」では都営三田線白山駅に出るコースがあるのでたどってみます。 38E-9.園乗寺前・八百屋お七地藏尊 38E-6大圓寺から西へ旧白山通りの国道17号へ出ます。ライオンズマンション文京白山の角を西へ坂道を下れば赤い提灯がゆれている八百屋お七地蔵尊があります。脇の参道を北上するとお七の墓がある園乗寺です。境内にやや傷んだ天明六年(1786)青面金剛塔がありました。38E-10.心光寺の石仏群 坂を下ると白山下の交差点です。坂道を右手にのぼれば都営三田線白山駅です。駅入口を過ぎると左に心光寺参道があります。山門を入ると左に六地蔵、右に大日菩薩など魅力的な石仏が迎えてくれます。まず、六地蔵は左から明暦元年(1655)寛永十六年(1639)寛文元年(1661)万治二年(1659)寛文五年(1665)と結構古くて彫の良いものです。向かい合って右手は阿弥陀如来を挟んで寺では六観音となるように石仏を配しているようです。まず、左から延宝五年(1677)阿弥陀如来、寛文三年(1663)聖観音、承応二年(1653)馬頭観音?(ガイドはこれを聖観音としていますが印形からすると馬口印か智拳印の大日如来のような感じです。でも観音だとすると・・・)、年不明聖観音(如意輪?)となっています。何れも墓碑なのでちょっと信人は敬遠気味に観てしまいました。如来の先、樹木を挟んで矢張り珍しい3体の観音さまです。左から万治三年(1660)十臂千手観音?、貞享二年(1685)准提観音?、寛文二年(1662)不空羂索観音となっています。あるいはこの中に十一面観音もおられるかもしれませんが像容だけでは判別しかねます。 六地蔵の先に、元禄十六年(1703)青面金剛塔、延宝四年(1676)三猿文字庚申塔、手前に青石板碑残欠が立っています。他にも延享二年(1745)地蔵菩薩などきりが無いようです。 今回はこれでお江戸石仏の遠足を終えましょう。 今回はGoogle Mapを使ってみました。マークをクリックしスケールバーを拡大していけば立ち寄り寺院を順番に見ることが出来ます。

2009/05/19

37E.江戸石仏 駒込から白山Ⅰ

北総石仏からちょっと離れて都内へ遠足してみます。特色ある庚申塔を巡ります。テキストは日本石仏協会編「江戸・東京ウォーキング」とその前版「石仏地図手帖東京編」です。気分転換にちょうどいい時間を過ごせます。 37E-1.富士神社の寛永庚申塔 山手線駒込駅から六義園を横目に本郷通を600m程南下し富士神社入口交差点を左に回りこむようにすると神社の鳥居前です。正面男坂の回りは鳶職の講中碑が朱も鮮やかに林立しています。私が取材している間に、何人もの方が通りがかりでもごく自然に石段下で礼拝している姿を見かけました。自分が場違いな気がして気を引き締めた次第です。敬虔な気持ちを忘れちゃいかんと反省しきりです。とはいえ纏の印がにぎやかです。そんな中に交じって目立たないけれど重要な板碑型庚申碑がそっと立っています。梵字キャ・カ・ラ・バアを頂き、寛永十七年(1640)を石仏表現で表記した板碑型庚申塔です。石段左には弘化二年(1845)安産神符塔なるものも立っています。急な階段をあがればコンクリート造りの社殿があります。本殿脇の女坂上がり場には宝永八年(1711)曾我御霊社が祀ってあります。その隣に明治四十四年にたてた市村羽左衛門(うざえもん)の記銘碑があります。「なんじゃこれ」としばし考えましょう。歌舞伎狂言の夜討曾我=夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)は富士の裾野の巻狩りを背景に話が進むそうですが、石祠曾我御霊社はその狂言にちなんだものを当時の売れっ子役者市村羽左衛門が寄進したのでしょうか?お勉強ついでに神社謂れと駒込ナスのの知識も仕入れておいてください。 37E-2.天租神社の庚申塔群 本郷通まで戻りさらに100mほど南下し区立第九中学校の前を通り過ぎれば正面が天租神社となります。写真は神社から振り返って参道を見た場面です。まず、お勉強してから入りましょう。鳥居から参道を100m進み本殿脇を右に回りこむと背面からの参道です。その参道入口脇に庚申塔が7基並んでいます。右からいくと延宝四年(1676)六臂合掌青面金剛塔で、「現伏三尸禍、速得二轉楽」と三尸調伏文言を刻んでいます。石仏信心にとって三尸文言は初見です。次は年不明の六臂合掌青面金剛塔です。次が寛文八年(1668)板碑型三猿庚申塔です。次は享保五年(1720)六臂合掌青面金剛塔となります。隣が慶安元年(1648)板碑型三猿庚申塔で「為庚申待意趣者二世安楽」と古い言い回しを刻んでいます。次は頭部の猿像が欠けていますが、元禄l五年(1692)板碑型庚申塔でしょう。隣は元禄十六年(1703)笠付三猿庚申塔(三面にお猿像)となっています。石仏手帖は正面は牡猿と言い切っていますが、今では断定できるほど象徴的ではないよなあという気がします。江戸前期の特色ある庚申塔が一遍に見ることが出来るのは矢張りお江戸石仏だからなんですね。本殿の戻り参道の右手に縁結び地蔵尊と如意輪観音のお堂があります。拝観しましょ。子育て地藏は昔は荒縄で縛って願掛けし、願いがかなって縄解きをしたという解説も読んでおきましょう。お堂の陰に水子地蔵尊もおられるのでちょっと拝んでおきましょう。 37E-3吉祥寺の庚申塔 天租神社から本郷通へ戻り更に200mほど南下すると、山門に栴檀林(せんだんりん)の額を持つ大寺院が諏訪山吉祥寺です。解説板を読むとわかりますが、文京区のお寺では歴史上の有名人のお墓を必ず載せています。これから回るお寺にもあちこちで掃苔録が載せてありますが、このコースでは原則パスします。参道を進むと左に露座のブロンズ大仏様です。その手前に普通の六地蔵がおられます。ですが「江戸・石仏ウォーキング」で蓮華浮き彫りの台石が見事とほめてありましたが確かにその通りですね。更に進むと二宮尊徳の有名な墓碑があるのでちょっとだけ載せておきます。ウィキペディアの記事もついでにどうぞ。記事にも載っていますが栃木県真岡市二宮町に二宮尊徳記念館があります。静かで気持ちよい所なのでついでの折に寄られることをお奨めします。閑話休題。尊徳墓碑の手前にも元文四年(1739)萬世常夜燈がどっしりと腰をすえています。ところで庚申塔はどこにあるかというと、参道左手の稲荷社の後ろ壁際に追いやられて佇んでいました。寛文八年(1668)の三猿塔です。「そりゃあ、尊徳さんの墓塔や萬世常夜燈の貫禄には負けますが、広い境内なのに写真もまともに撮れない塀際まで追いやられなくても・・・あんまりじゃないですか」と同情しちゃいました。旧経蔵も文京区の指定有形文化財指定で立派でした。解説つきでどうぞ。 37E-4.南谷寺の目赤不動 吉祥寺の斜め向かいが目赤不動の南谷寺です。目赤不動の謂れと目黄不動が複数あるなんて話はウィィペディアでどうぞ。門前に樋口一葉が思慕した(のぼせ上がった?)師匠・半井桃水の墓碑があると表示されています。さて、門前右手に丸彫りの白衣観音とも見える石仏がおられます。良くみると経持ちのようなので三十三体観音の一つ持経観音と思われますが初見です。持経観音は天明三年(1783)『仏像図彙』(ぶつぞうずい)に所載された図では右手が経持ちのようですがこの像は左手持ちです。経筒の代わりに魚籠をもてば完全に魚藍観音ですね。こちらには年不明ながら、しわの多い丸彫り恵比寿紳や金剛界大日如来がおわします。テキストでは立ち寄り省略してますが、時間があれば結構勉強になりますね。 37E-5.定泉寺の阿弥陀三尊板碑 南谷寺の隣が定泉寺です。きりがないのでテキストで示される石仏石塔のみ載せておきます。手前の参道沿いに線刻の閻魔大王碑と線刻六地蔵碑があります。共に昭和6年建立です。この六地蔵ですが上部種子の左二つは該当するものがありません、なんだろう?ここでは石碑よりその側にすえられた石製の垣根の素晴らしさに脱帽したので載せておきましょう。その先、参道沿い植え込みに小さな青石板碑が残欠ですが置かれています。蓮座の上、月輪の中にキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊種子を刻んだ至徳三年(1386)板碑です。そして本堂手前の木陰に阿弥陀仏を六面に彫りこんだ宝篋印塔が立っています。また参道から左の墓地入ると角型で立派な見道上人の墓石祠があり、その窓から観音菩薩のお姿がうかがえます。 37E-6.徳源院の庚申塔 定泉寺の先のT字路、駒本小学校前の信号を渡り250mほど進めば徳源院が左手にあります。目赤地藏の旧跡であることや動坂におられた日限地藏を安置したとうたっています。私が写真を撮っているときもいつものようにお参りにこられた婦人を見かけました。信仰が息づいているなあと感心した次第です。山門をくぐるとすぐ左に日限地藏(ひぎりじぞう)が立っています。地藏に向かって右側に道標も兼ねた文化四年(1807)再建?の猿田彦太神の文字庚申塔が置かれています。右側面は「 やなか道」など 正面は 「すぐ みぎ ・・・道」などと読めます。 37E-7.蓮光寺の板碑型庚申三猿塔 徳源院前の信号をわたり養源寺の前をとおれば右手に蓮光寺の参道が右手に現れます。墓地も参道左に広がっています。石仏探しは苦労しそうですが、ガイド通りに手短に拝観しましょう。参道右手は石仏がずらっと並んでいますがほとんどが墓碑なのでパス。六地蔵のならびに寛文八年(1668)板碑型庚申塔が見つかります。江戸前期もので私のホームグラウンドでは少ないですね。ガイド記載の「気品ある僧形像」は、今回訪れると墓所の前に供花立代わりに座っているようです(随身というらしいですね)ちょっとガッカリ。本堂左の立派な錫杖持ち地藏三体は右二体寛文三年(1663)・延宝三年(1675)ですが、こんな感じでおられます。墓地に見られる地藏三体如意輪観音二体の墓塔は樹木が邪魔してうまく写らなかったのでパスします。代わりといってなんですが右手首が欠損、頭部も継接ぎですが腰の据わった半跏踏み下げのお地蔵さまがおられました。 37E-8.光源寺の千手観音 蓮光寺を出て南下し角を右に曲がればそこが光源寺です。訪問時は境内に劇場?を建設中のようで落ち着かない雰囲気です。調べると水族館劇場という野外劇中心の演劇集団が根城にしているようです。それはさておき、まずは参道正面に駒込大観音が金ぴかで全面ショーウィンドウの奥にお立ちです。気圧されたのか写真を撮り忘れました。本堂右の木陰にお目当ての丸彫り千手観音さまがおられます。どうだ、参ったかといわんばかりで、信心は思わず合掌しましたね。通常,合掌手を入れずに左右20手計40手で各手25有界の衆生を救うために都合千手となるそうですが、この仏様は20手なので各手は50有界の衆生を救うのでしょう。(日本石仏事典)。お隣も重量感あふれる丸彫り阿弥陀如来坐像です。弥陀定印も大きくて眼鏡のようです。共に元禄・後期の建立だろうとのことです。北総近辺では丸彫りでこれだけの種類・質・量の石仏はお目にかかれません。さすがお江戸石仏ですね。阿弥陀様の更に奥、ベンチのある広場の側に3mはあろうかという明和九年(1772)六臂ショケラ持青面金剛塔が立っています。古いガイドに「百万遍講中が立てたものですが念仏講中が庚申真言も唱和している一例」と書かれています。お猿さんが可愛いので載せておきます。そういえばこの真中のお猿さんこそ牡猿のようですね。本堂左手の庭園の中に小さな貞享四年(1687)板碑型三猿文字庚申塔が佇んでいます。種子が不動明王のカンマーンを刻むとガイドに載っていますが磨耗していてちょっと肉眼では見えないと思うのですが。 今回はこれまでとしましょう。