2009/06/27

40 北総石仏 白井ⅩⅤ

鈴木普二男氏著「白井の文化遺産史」に、河原子の地名は地区南を流れる神崎川の後ろ(北側)にある所から河原後・川原後から出てきたのではないかとの記述が あります。住民が勢子(狩の際、獲物の追い出し役)を勤めたような経緯から河原子に転化したのではないかとの説ですが、現在でも地区の置かれた環境を見る とそれも頷けますね。
40-1河原子旧道の地蔵尊(花見地蔵) 河原子のバス停近くの四つ角まで戻ります。四つ角に変則的な未舗装路が分岐しています。その傍らに小さなお地蔵様が佇んでおられます。安永十年(1781)三月三日講中七人とあります。通常「花見堂」「花見地蔵」と刻む地蔵石仏は花見地蔵と呼ばれて一つのカテゴリーに分類され研究対象となっています。また、刻字はないけれどひな祭りの日付を刻むお地蔵様も花見地蔵に分類されています。従ってこの地蔵も花見地蔵の1基ということになります。その内容は房総石造文化財研究会の沖本会長が究明されています。花見地蔵研究の内容はこちらをご覧ください。ついでといっては何ですが、石仏信人が所属している房総石造文化財研究会HPもご覧ください。では白井(旧白井宿)へ戻ります。 40-2白井・河原子道入り口の馬頭塚 木下街道から白井工業団地へ向かうT字路角が馬頭塚です。残念ながら塚の態をなしていないので言われないと気がつきませんね。排気ガスが苦しいのか昭和7年・大正九年の文字馬頭が半身を地中にうずめて頭だけ出しています。大正15年「馬頭観世音」碑と隣の嘉永七年(1854)と読める文字馬頭さんなどを見てやっと石塔の集まった旧馬頭塚を偲ばせるくらいでしょうか。T字路信号で木下街道を右にとります。向かいに鈴木建材があるやや奥まった石垣の中に庚申塔がかたまって祀られています。 40-3白井庚申塚 実はここを探し出すのに一苦労でした。狭い間口の敷地手前はいつも駐車されていて見通しが利かず、注意深く探さないと見えないのです。入り口の石段両側には昭和47年整備で「町内安全」「家内安全」と刻まれた石柱があって庚申塚とは思えず、最初は墓地かと勘違いしましたが敷地内に墓碑はありません。見掛けで判断している信人はまだまだ人物ができていないようです。 まず、右手前正面を向けて昭和47年忠魂碑があります。学制百年を記念して英霊を慰霊すると謳っています。その奥にコの字形に右3基の庚申塔、左に3基で庚申塔1基・廻国供養塔2基、そして正面に6基の計12基の石造文化財集団です。正面の6基は文字青面金剛塔2基・板碑方三猿庚申塔2基・帝釈天王塔1基・駒形大明神石祠1基となっています。 では右側3基ですが、手前から天保三年(1832)青面金剛王塔・文化九年(1812)文字庚申塔・享和二年(1802)青面金剛王塔となっています。次に左の3基ですが、手前から明和四年(1767)廻國供養塔で下の写真です。隣は天保三年(1832)西国秩父坂東供養塔、嘉永三年(1850)文字庚申塔となっています。正面は左から文政三年(1820)駒形大明神石祠・万延元年(1860)帝釈天王塔・次がこの中で一番古い延宝六年(1678)笠付角柱型三猿庚申塔は下の写真です。隣は文政三年(1820)文字青面金剛王塔と続きます。隣はこれも古い元禄六年(1693)板碑型三猿庚申塔もあり写真を載せておきましょう。右端は寛政七年(1795)文字青面金剛王塔となっています。多分区画整理などで運び込まれてものも多いでしょうが延宝年代17世紀後半の庚申普及期の早い時代の三猿塔があるなど、この地区の古さを感じます。いつものように「お猿さんだ~よ~」画像も載せておきましょう。40-4白井・鳥見神社の石碑群 T字路の交差点から東へ300m進むとさつまやとコスギ理容店の間の小路が鳥見神社の参道です。こちらの神社は石仏というより石祠・石碑の類が多く、住民の行事・行楽の記録が多数石に刻まれて残っています。まずは正徳三年(1713)の明神型石鳥居が市内最古で由緒あることをうかがわせます。境内の右手に白井不動尊を祀っています。神仏分離令前では普通ですが、神社に不動尊が同居する珍しい形です。不動堂のまえには石碑が堂々と並んでいます。写真は載せませんが昭和40年九州一周旅行記念碑が一番手前に立っています。参加者32名発起人2名で8日間の日程、往路新幹線と瀬戸内航路・帰路は飛行機の豪華旅行が記載されています。その隣は昭和33年伊勢講碑・大正10年伊勢太太神楽記念碑となります。つまり団体旅行の記念碑ですね。一方、本殿左方には出羽三山塔が3基あります。左から明治33年・大正2年・昭和37年の月山主尊の三山塔となります。つまり出羽三山観光ですね、鳴子温泉などへ寄ったかもしれません。 神社左手には北総農村でよく見かける昭和3年御大典記念(敷地150坪寄進)記念碑が立っています。写真はそれに続く石祠のラインアップです。左から年不明の氏神神社石祠・昭和3年天満宮石祠・慶応二年?(1866)諏訪大明神石碑となっています。氏神神社とは何か?その奥に弘化四年(1847)浅間神社石祠があります。平成元年調査報告書第四集では所在が鳥見神社脇浅間塚にあると表示されているので整地されて現在の姿になったようです。又、年不明ですが小御岳石尊大権現碑があります。明治の神仏分離令以前は山の神社に寺院が同居し本尊を本地垂迹説に基づいた神号で称し、例えば石尊大権現と呼んで神仏混淆で祀っていました。石尊大権現には相模・大山石尊大権現と富士山新五合目の小御岳石尊大権現の二系統がありますが、こちらは富士山系の大権現となります。この石碑のお約束で大天狗・小天狗と彫られるのが通常ですが、何故?というのはWikipediaで見ておきましょう。 40-5白井・下長殿集会所の十九夜塔 T字路交差点から東へ100m進むと秋本寺の向かいに歯科医院があります。その角を右に曲がると歯科医院の裏手になるところに下長殿集会所があります。コンクリートの敷地の壁際に写真のように石仏が横一列に並んでいます。敷地の壁際に並ぶ石仏群ですが、左方は無名墓碑群が続き、次に延命地蔵と六地蔵が写真中程から続きます。尚、中央の延命地蔵は(花見)堂と刻まれ前に述べた花見地蔵に分類されるお地蔵様です。どの石仏も風化が激しく判読するのが結構難しいですね。以下、石造物調査報告第四集と照らし合わせての記載となります。 まず、道路に沿って石碑が4基ありますが判読できるのは右の2基です。右から弘化四年(1847)湯殿山主尊の出羽三山塔、隣は馬頭が見える昭和4年文字馬頭観世音塔となっています。次に写真ではブロック塀沿いの石仏で六地蔵の右隣はやせ細った文化七年(1810)十九夜如意輪観音塔となります。隣に昭和4年子安塔、明治27年如意輪観音塔と続いています。敷地奥に印西大師17番大師堂と平成9年白井組合大師結願記念碑が建立されています。白井の大師講は明治37年に発足し平成17年に白井組合が解散されるまで約100年に亘って続けられました。これを記念して立派な大師像が作られています。詳しい経緯も是非目を通しておいてください。では、これくらいにして木下街道を北上しましょう。 40-6白井神崎川畔の伊勢宇橋石碑 木下街道を横切る川が神崎川です。川の傍に自然石型で「伊勢宇橋八十六ケ所目」と刻んでいます。伊勢屋宇兵衛こと飯田及平(かねひら)という江戸の醤油酢問屋の大商人がかけた石橋架橋の記念碑です。この地での架橋位置はわかりませんが記念碑が掘り出されここにすえられました。彼は天保年間(1830~44)に百八の石橋を各地に架けましたがこの美談は新・江戸崎の昔話13話「百の石橋を架けた男」で知ることができます。群馬県草津町や神奈川県足柄町に石橋が現存しているようです。(鈴木普二男氏著「白井の文化遺産史2004」、江戸崎小学校PTA誌「しろやま」江戸崎の昔話から引用させていただきました) 白井の石仏はひとまず終えて次回は特色ある神々廻(ししば)の石仏をめぐりましょう。 も覗いてみて下さい。

2009/06/19

39北総石仏 白井ⅩⅢ

遠足で出かけたお江戸石仏から、ホームグラウンドの北総石仏に戻ります。とりあえずなりふり構わずにブログ更新に精進したいと思います。お立ち寄りしてくださる方々に、お接待やご返事もしないで心苦しいのですが。初心者なので記録整備が追いつかずデータばかりが溜まってしまうばかりで今しばらくご容赦を願います。 この河原子天神社と次に記載する阿弥陀堂は同じ場所に隣接しています。google mapには河原子集会所の表示がある場所です。白井市循環バス「ナッシー号」だと4系統河原子バス停下車となります。 39-1.河原子天神社の石仏群 天神社参道入口に5基の庚申塔が並んでいます。
左から明治42年(1909)文字庚申塔、天保三年(1831)青面金剛像(剥落)、文政八年(1825)文字庚申塔、明和元年(1764)六臂青面金剛像塔、安政二年(1855)文字庚申塔となります。明和の庚申塔以外は砂岩で出来ているため荒れ方が激しいですね。明和塔は安山岩なのでこんな感じで残っています。参道の両側は文久元年(1861)、明治16年(1883)狛犬、平成十九年石灯籠などが並んでいます。薄暗い境内右手には昭和30年・大正13年伊勢講碑や三山塔4基など並んでいます。境内で何の変哲もない昭和17年大東亜戦勝祈願碑を見つけましたが、寄進に花崗岩六拾四枚・大谷石三拾本と刻まれていました。物資のない時代にきっと貴重だったんだろうなあと思いました。本殿奥の所に元文四年(1739)「疱瘡守護神」石祠を見つけました。今回の豚インフルエンザの流行をみて江戸時代なら「豚印振円座」守護神と刻むだろうなあと思った次第です。さて、天神社は菅原道真公をお祀りしたお社ですが北総の社は物語風に彫刻を施すのが流行りのようで、こちらも例外ではありません。壁面に牛に乗った道真公や梅の枝の下、流罪を暗示するような図柄の彫刻が見られます。素朴で飾り気のない田舎風が面白くて楽しめました。天満天神道真公はいつものWikipediaでお勉強しておきましょう。
39-2河原子・阿弥陀堂跡石仏群
天神社に隣接して河原子集会所の広場があります。この地にきっと阿弥陀堂があったのでしょう。敷地縁と竹薮の中に種々の石仏が点在しています。敷地縁には十九夜塔が無造作に放り出されています。左手前から天明五年(1785)・文化三年(1806)・享保十一年(1726)・宝暦六年(1756)・明和元年(1764)の十九夜如意輪観音塔が並んでいます。
広場の道路寄りには奉待二十三夜供養と刻み普門品一万と併記した明治18年塔や昭和22年出羽三山・太太神楽奉納と刻む石碑などちょっと変わったものが見られます。ちょっと離れていますが昭和18年文字庚申塔と明治36年文字馬頭観音が置かれています。馬頭観音には「武州上岡」と刻まれています。初学者の信人には「武州上岡とはなんぞや?」が研究課題だったのですが榎本正三氏著書「河岸の人々の暮らし」で氷解しました。通常は「武州上岡写」(埼玉県東松山市)の意味で関東三大観音の一、妙安寺の馬頭観音を写し祀った意味だそうです。印西・我孫子・沼南各地で広く信仰されていて白井地区でも何基か既出しております。上岡観音で概略を見ておきましょう。
そのほかにも広場に隣り合った小潅木の陰に庚申塔が4基並んでいます。光線の加減で見辛いですが左から、天明五年(1785)文字青面金剛塔、寛延元年(1748)(剥離)六肘青面金剛塔、宝永六年(1709)六肘青面金剛塔、明治12年(剥離)文字庚申塔となっています。剥離している寛延塔の上部青面金剛像は背後にもたれかけて置かれています。どうも頭部がアーモンド型に見えるようですね、専門家から見たらどうなんでしょう。 この他にも寛政十年(1798)三界万霊塔は正面上部に地蔵を刻し側面に「善光寺三十三度」と刻まれていて信仰心の厚い人が建立したようです。その他古峯神社石祠・浅間神社石祠・三峰神碑など枚挙に暇がありません。私は見過ごしましたが元文四年(1739)「道陸救護神」石祠も珍しいので見たかったのですが後の祭りですね。 39-3河原子旧道墓地の六面石憧
バス道まで戻り右折し50mほど進むと道路向かい側に何台かの廃車が置かれている角道があります。道なりに林の中を進めばぽっかりと開けた原っぱのような墓地に出ます。道路に沿って右手にポツポツと立っているのが5基の文字馬頭観音碑です。そして左手奥に六面石憧が孤立しているのが見えます。馬頭観音で一番新しいのが平成元年の朱入り文字馬頭さんで写真で見るとやはり現代風ですね。
また、立派な寛政五年(1793)六十六部供養塔も立っています。頭部にバク・アン・マンの釈迦三尊種子を刻んでいますが、白井町石造物調査報告書ではキリーク・サ・サクの弥陀三尊種子に誤記しています。悪趣味ですが誤りを見つけるのも楽しく又、勉強にもなりますね。 左手奥に見えた六面石憧は総長2mの立派なもの。明和七年(1770)で安山岩の彫りもよく二世安楽と刻まれています。とりあえず今回はこのぐらいにしてしておきましょう。 >