2009/07/23

43北総石仏 白井ⅩⅧ

この地区は清戸地区です。前回の宗像神社から300mほど南下すると左の崖上に薬王寺が見えてきます。駐車場などに赤い白井七福神の幟が目に付きます。 43-1清戸・薬王寺の十九夜塔 薬王寺は宗像神社方向から来ると駐車場から入ることになります。つまり裏口ですね。正式には駐車場を通り過ぎたところにある石段を戻るようにして駆け上ったところが境内となります。今回は駐車場から入りましたが、通路の片隅に小さな道祖神が祀られていました。本堂はしっかりと建てられ、右手にある清戸薬師堂と二十三番大師堂も立派な建物です。本堂前の境内は余り広くありませんが、本堂に向かい合うように石仏が並べられています。白井七福神の弁財天は平成16年造立の現代版弁財天です。その並びにスマートな如意輪観音が4基ラインアップです。左から宝永二年(1705)如意輪塔、延宝七年(1679)六臂如意輪観音塔は古いだけに珠持ちで彫りもしっかりしています。下の写真は延宝塔です。次が安永三年(1723)・天明三年(1783)十九夜塔となっています。清戸薬師堂の手前一画に寺子屋師匠碑の立て札がある筆子搭があります。台石に米井氏門人中と刻まれています。一般に筆子塚ともいわれ筆の穂先形をしているケースも多いとウィキペディアにありますが、私の見てきた中でそんな形は多くなかったぞ?というのが実感です。ある研究者が千葉県の筆子搭を研究して三千数百基を究明しています。金石研究者の地道な努力に頭が下がりますが、詰まるところ千葉県ではどこの村にもありそうで次の西福寺でもお目にかかることになります。 43-2清戸・薬王寺子安堂 薬王寺に突き当たるT字路角が子安堂です。村なかの普通のお堂ですが祭られている子安塔は、宝冠を付けた観音に赤子が左手に抱かれ右手はどうやら未敷蓮華持ちのように見えます。比較的新しいものです。境内は入口右手に天保十五年(1844)六十六部供養塔と六地蔵が並んでいます。六地蔵も磨耗が進み安永八年(1779)・天明五年(1785)の2基しか読みきれませんでした。後は墓碑がならんでいるようです。コンダケー?それにしても子安塔は薬王寺境内に全部引越ししちゃったのでしょうか? 43-3谷田(やた)・西福寺の常夜灯 薬王寺前をさらに300m程南下します。大きなイチョウの木のある広場が西福寺です。幹周り5.1mで「乳房公孫樹」と呼ばれ白井市の有形文化財に指定されています。広場の奥に近代的な西福寺の本堂が立っています。大師堂が3棟とイチョウの木にかかっている東屋は線彫り不動明王の覆屋です。明治11年(1878)の線彫り不動明王は成田山と頭書され右手に宝剣・左手に羂索(けんじゃく)を持ち、左脇=向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と右脇=向かって左に制多迦童子(せいたかどうじ)を従えています。余り出来はよくありませんが大切に保存されているのは喜ばしい限りです。 広場右手のお堂の前に常夜灯が立ててあります。高さは2.5mくらいでしょうか。明治の瓦斯灯に近いイメージです。ちょっと見かけないタイプですが何か謂れがあるのでしょうか? 広場奥の墓石が並んでいる中にひときわしっかりした石塔が立ててあります。筆子中と刻まれたまさしく筆子搭であります。嘉永五年(1852)に亡くなった師匠を偲んで門人拾八人が安政二年((1855)に建立したようです。 43-4谷田の馬頭塚 西福寺前を更に南下して国道464号線を横切って200mほど進み左手開発された民家集落の傍に馬頭観音が5基並んでいます。いずれも文字馬頭観音です。写真手前の自然石型馬頭は昭和11年です。後は昭和7年・明治43年・明治32年・昭和18年建立ですが、風化が進んでいるので誤読したかもしれません。寒村荒野での馬の苦労(開拓農民は勿論のことです)が偲ばれる光景に思えました。 43-5谷田の庚申塚 馬頭塚から更に300m東進します。東京機材工業白井機材センターの前、道路際に25基の石仏が並んでいます。壮観ですね。庚申塔が多いですが他の石仏石祠もあってなかなか賑やかです。勉強も兼ねて出来る限り画像をのせておきましょう。左端は大六天神社から始まります。昭和12年の新しい石祠です。大六天(第六天)は民間信仰としては除災招福の神仏として、また仏教的には他化自在天をさすといわれ仏の成道を邪魔した魔王ですが天部の神仏として祀られたようですが詳しくは不明。(日本石仏事典第二版)何故、昭和の時代にこのようなものが祀られたのか更に不思議ですねえ。次は猿田彦大神碑が2基ですが、左から万延元年(1860)・弘化四年(1847)の造立です。次に六臂合掌青面金剛像が3基続きます。明和九年(1772)塔は3基中ではよく出来ていますが、別の三猿台石に載せたのでお猿さんが余っています。明和二年?(1765)塔は邪鬼が笑って?います。年不明の青面金剛塔は邪鬼の頭に金剛の片足しか乗っていない像塔です。次は寛政元年?(1789)文字庚申塔ですが講中安全のもじが交通安全にも通じて世の中変わらんなあと可笑しく感じます。六臂ショケラ持青面金剛塔は寛延三年(1750)ですがアーモンドヘッドのようですねえ。次はこのなかで最大の寛政七年(1795)笠付三猿塔です。隣が享保十年(1725)笠付六臂ショケラ持のこれもアーモンド型青面金剛塔のようです。文政十三年((1830)文字庚申塔、文化十一年(1828)文字青面金剛塔が続きます。享保十年(1725)六臂ショケラ持青面金剛塔は頭部が削れて不明ですが法輪を載せる水平掌からアーモンド型かも知れません。奉待二十三夜塔は安永五年(1776)の造立です。湯殿主尊の出羽三山塔は天保十年(1839)の造立です。年不明文字庚申塔の隣は人型と思えない何かの像ですが、不気味ながらひょうきんさも感じられる不思議な像です。年不明道祖神石祠、年不明文字二十三夜塔、明治21年(1888)月山主尊出羽三山塔、弘化二年(1845)普門品一千部供養塔が続きます。延享四年(1747)笠付大乗妙典供養塔の次は天明八年(1788)道祖神です。最後は嘉永四年(1851)常夜燈の竿部で終わっています。塚とはいえ何か舞台の上の石塔石碑のラインダンスを見るようで壮観ですね。 43-6谷田・八幡神社の石祠 西福寺でバス通りの道をとらず横道を南下します。北総鉄道の高架下の道路の交差点信号に出れば、高架をくぐった左角が八幡神社となります。集会所の傍を抜けてコンクリ階段を上りきった崖上=北総鉄道側壁に当たるところにミニチュア本殿が覆屋の下に鎮座します。北総鉄道の敷設で移転されたのでしょう。コンクリート側壁に様々の石祠が並んでいます。延享三年(1746)大杉大明神は疱瘡除けの御利益でしたね。天保十年((1839)金比羅大権現もあります。明治18年古峯神社・石裂神社は栃木県の山岳修験信仰に基づきます。文化十三年(1816)稲荷明神もありますが明和五年(1768)石祠は疱瘡神?でしょうか。都合8基の石祠が置かれています。それにしても石祠の種類が多くて混雑状態です。別雷神社と読める石祠もあって村人は個別御利益毎に神様を増やしていったのでしょうか? 今回はここまでとして、次回で白井石仏のフィナーレを迎えましょう。

2009/07/16

42北総石仏 白井ⅩⅦ

白井もあと少しになりました。今回は十余一(とよひと)から清戸へ回ってみましょう。さて、非常にローカルな話題ですが千葉県松戸と津田沼を結ぶ新京成電鉄線という路線があります。この電車は帝国陸軍・鉄道連隊用鉄路を準用して蛇行を重ねて北総の荒野を走っています。この路線の駅名に初富・二和向台・三咲・五香という駅名があります。又、この路線と交わる東武鉄道野田線に豊四季・六実という駅名があります。遠く離れていますがJR総武線に八街(やちまた)という駅もあります。何か数字が匂いませんか?歴史を紐解きましょう。明治維新政府は明治二年(1869)この北総台地(小金ケ原と呼ばれる牧=放牧場)の開墾移民事業を開始しました。その第一陣が始まった地名が初富と名づけられました。以下、二和(ふたわ)・三咲(みさき)・豊四季(とよしき)・五香(ごこう)・六実(むつみ)・七栄(ななえ)・八街(やちまた)・九美上(くみあげ)・十倉(とくら)・十余一(とよひと)・十余二(とよふた)・十余三(とよみつ)と字を付けられたしだいです。ということで、こちらは11番目の開墾地である十余一(とよひと)を訪ねます。 42-1十余一(とよひと)・香取神社の石碑 印西牧の開墾地である十余一は木下街道沿いで16号国道白井交差点から6kmほど西進した左道路沿いにあります。パーラーみのりやというパチンコ屋の500mほど先にあります。先述したように歴史も浅いところから石仏は見当たりません。代わりに皇紀2601年(1941年=昭和16年)伊勢講碑、大正9年聖徳太子碑、昭和4年文字庚申塔、昭和37年出羽三山塔などが石段沿いの斜面に立てられています。又、神社右側の駐車場左奥は印西大師19番太子堂、明治15年(1882)子安塔などがぽつんと置かれていました。この神社の前を通る木下街道の車の多さと取り残された社の有様が非常に対比的でしたね。ところで香取神社についてはWikipediaで簡単に見ておいてください。北総ではこの香取神社・鳥見神社・大杉神社などが縄張りを張っています。この神社のお勉強も追々やっていきましょう。 42-2十余一分岐点の徳本塔 香取神社から500mほど東進するとウェルシアというドラッグストアがあります。この信号で木下街道は大きく北転する変則四叉路となっていますが、千葉ニュータウン・木刈方向へ東進する道路沿い右側に石塔等が立っています。右側2体の地蔵は墓碑と思われます。中でも大きくそびえるのは独特の書体で「南無阿弥陀仏」と刻まれた寛政十一年(1799)徳本塔です。地元一億講中が立てた「一億供養塔」とも刻まれています。31-1で述べた徳本塔は文化十三年(1816)二月、徳本行者が白井に来て開眼供養をしています。33-3名内・東光院でも文化十二年(1815)一億供養塔を見学しました。この徳本塔はそのはるか前に一億講中で立てていますが花押はありません。東光院と同様に、大もりむらみち?・ふさむらみちと道標もかねていて往時には村境に立っていたのでしょう。(この石塔は何度か移転しています)左端に嘉永六年(1853)道祖神石祠が立っています。保存状態は良好なのできっと村人に信仰されてきたのでしょう。 42-3清戸の庚申塚 十余一分岐点の交差点から船橋カントリー方向へ南下します。船橋カントリーの正門前を500m程通り過ぎると未舗装の細い道が右に分岐するところが庚申塚です。塚とはいえ実際は右分岐道路沿いに16基ほどの庚申塔・馬頭観音塔・二十三夜塔が並んでいます。気になる石仏を載せておきます。左端の文政十二年(1829)庚申塔は文字面を削られていますが、お猿さんがついているので載せちゃいましょう。隣は頭部に種子サク=勢至菩薩を頂く寛政五年(1793)素朴な「奉造立廿三夜尊」です。続いて安永四年(1775)文字青面金剛塔、享和元年(1801)文字庚申塔が並んでいます。背の高い笠付文字庚申塔は「奉造立庚申開眼」三猿塔ですが、延宝?二年(1674)の古い庚申塔と思われ素朴な味わいに感心してしまいました。続いて元文二年(1737)ショケラ持青面金剛像ですがどうやらアーモンド型に見えませんか?出ましたよー。 次が宝暦二年(1752)「奉供養庚申」三猿塔となっています。あとは文政元年(1818)文字庚申塔・天明八年(1788)文字青面金剛塔、文字庚申塔2基と続きます。右端のほうは馬頭観音が5基となっています。明治・大正期の新しい文字馬頭ばかりですが、写真の馬頭観音像塔は年号を読み切れませんでした。 この塚の隣に昭和19年三山・観音霊場百八十八箇所巡拝塔、昭和18年高野山登山碑を両脇に従えた大師堂が建っています。 この塚の未舗装路を進むと右手に神社の杜が見えてきます。 42-4清戸・宗像神社の石造物と社殿 この神社は民家に離れて鎮座しています。明治16年建立・昭和61年再建の石鳥居には清戸・谷田氏子中と刻まれています。つまり清戸村・谷田村が合同してこの神社を両村の境に祀った歴史が見えてきます。立派な社殿は最後にとっておきましょう。正面に長い参道が105m程続いているのが分かります。縁起による草創は貞観拾八年(876)と伝え慶長八年(1613)天保二年(1831)再建と郡誌等に記されているようです。「旧谷田村・旧清戸村の総鎮守で、明治維新まで両村の地頭から交代で祭典料を下賜されて運営されてきた珍しい神社である」と鈴木普二男著「白井の文化遺産史」に記載されています。正面石鳥居の右に享保九年(1724)六肘ショケラ持青面金剛塔が立っています。保護の鉄柵があって分かりにくいですがどうやらアーモンド型ヘッドの青面金剛塔です。この塔は珍しく左右に童子がついた二童子付です。 鳥居をくぐると左に石造物が3基ほど固まっています。昭和57年三峰神社石祠の左に天明七年(1787)馬頭観音像、そして石祠の手前は明治21年(1888)奥州仙台地蔵と刻まれた文字塔があります。なんでしょうねえ。 長い参道の途中には大正七年八坂神社石祠・寛政七年(1796)手水石などがポツンポツンと置かれています。船橋川端・石工・長十郎(梨みたいな名前?)の銘が入った整った石灯籠と、同人の銘入・文久二年(1862)狛犬はいずれも幕末の石造物の一つの完成形式を観るような思いです。社殿手前の参道右側には昭和22年出羽三山塔、年不明・木花咲耶姫命と思われる石塔があります。(残念ながら咲耶姫の顔容は削り取られています。石塔の頭部に富士の山形が残っていることからそう推察されます) ほかにも昭和25年神社敷地を関東財務局から譲渡された記念石碑とか、日枝神社・豊受大神・照皇大神・櫛岩?神・浅間神社を一同に祀った石祠もあります。又、金比羅(大権現)石祠は左から寛政八年(1796)・明治17年(1884)・大正3年(1914)と3代に亘って祭られています。この信仰は舟運関係者に厚く信仰されています。利根川・手賀沼での舟運の影響が及んだものでしょうか?宗像神社そのものが航海の安全を祈願する神社であるところから金比羅が3基もあるのもうなづけます。 では、締めくくりに天保二年(1831)建立とされる社殿を見てみましょう。「白井の文化遺産史」の引き写しですが、一間社流造・銅版葺・総ケヤキ・節無白木造と金を懸けた小ぶりながらも豪華絢爛の建物です。石組の上に社殿を置き回廊下の腰組は四手先で支えており普通の神社ではまず見受けないものですね。施された装飾彫刻は浮き彫りも深く「富士山頂に関係あるものが飾られています」と白井文化遺産史2004に書かれています。確かに社殿背面の彫刻は富士山を遠景に猪に乗った大鬼のような男が描かれています。社殿右壁面は牛若丸のような装束の若者が鳶口持った烏天狗や羽団扇を持った大天狗を相手にひらりと飛び上がっています。左壁面は刀鍛冶の様子が彫られています。背面・右壁面は分かりますが、左壁面の鍛冶場面は富士山に関係あるのでしょうか?そもそも何故、舟運安全祈願の宗像神社に富士山関係なのか、勉強しなければ分かりませんね。 [追記I先輩から社殿壁面の図柄についてご教示があったので補足します。背面の図は<曾我物語>巻八〈富士野の狩場への事〉での名場面=仁田四郎(忠常)が頼朝の面前で猪に逆さまに乗りながらも仕留めた勇猛振りを表す名場面のようです。従って右上方の烏帽子貴人は源頼朝ということになります。 右壁面は能の五番目物<鞍馬天狗>の一場面で牛若丸が日本各地の天狗を引き連れた大天狗によって力を授けられる(天狗相手のトレーニング)様子を表しています。 左側面も能の五番目物<小鍛冶>の一場面です。三条小鍛冶宗近が勅命で剣を奉るに際して相応しい相槌(あいづち)がいない事に困り稲荷大明神に祈願したところ、霊狐(後ジテ)が現れて相槌を務め,名剣小狐丸(こぎつねまる)を仕上げることが出来たという話の場面です。したがって右の人物は霊狐ということになります。大鍛冶=製鉄する人をいい、剣を打つ人は小鍛冶というそうです。尚、五番目物とは江戸時代の能の一日番組編成で五番目に演じられるテンポの速いアクション物等を指します。・・・・平凡社世界大百科事典より。 これを見ると先述した富士山との関係はないと結論付けられそうです。私見ですが能や歌舞伎の名場面をこれだけそろえているところを見ると、江戸の彫師に注文した人気名場面壁画は村人に大変な娯楽の場を提供したように思えます。宗像神社だから海関係とか信仰の場だから富士山関係と現代人が固定観念で想像する以上に、江戸時代の農村はさばけていたように思えます。追記終わり] そういえば境内に富士関係では木花咲耶姫命の石碑がありましたが他には特になさそうです。浅間神社が合祀された石祠はありましたがその程度でしょうか?出羽三山碑は1基のみで富士講碑は見当たりません。分からんことが多いですね。