2009/09/24

50E.信濃 松本・四賀の石仏Ⅰ

石仏地図手帳長野編をみていると「嶺間四賀村の石仏・・かくれた石仏の宝庫」と出ています。昭和30年に嶺間4ヶ村と呼ばれた錦部・中川・五常・会田村が合併し四賀村となりましたが、更に平成17年松本市に編入されました。したがって現在では松本市最北部の石仏を観るというのが正確な表現になるかも知れません。とはいうものの、駆け足の観仏でもあり「宝庫」の実感は湧いてこなかったですが・・。
車だと長野自動車道豊科インターでおります。JR篠ノ井線明科駅近くから県道302号線で会田方面へ東進します。

50E-1大足バス停近く火の見下の石仏
県道を2km足らず走ると大足地区に入ります。安曇野市消防第6分団建物火の見が目印です。脇に下る道沿いに二十三夜塔や馬頭観音などなど10基が立っている所があります。一番目に付くのは大正13年の立派な大黒天碑です。このあたりでは甲子信仰としての大黒天が多いとのことです。後方に宝塔と呼ぶのでしょうか変わった形の元禄十五年(1702)造立の石造物です。方形の塔身には偈文でしょうか「妙経八軸一千部読誦分明盡精神寶霊嶽厳然今猶在塔中獨露放光眞」と刻まれています。塔身は窓になっており中に法界定印らしき印を結んだ阿弥陀如来?がおられます。他に明和年間の馬頭観音など4基をはじめ不明石塔が散立しています。

50E-2太の田バス停傍の石仏
次のバス停にあたるのでしょうか太の田バス停があります。コンクリート擁壁傍に年不明自然石型道祖神、慶応二年(1866)二十三夜塔がありました。少し離れて平成四年再建と記された馬頭観音が立派ですね。でもわざわざ立派な馬頭さんを再建した理由とは何なんでしょうかね?

50E-3望月組前の大黒塔
井刈相沢バス停の手前で右に集落へ下る道が分かれています。その三角分離帯の木陰に目立たない明治2年大黒塔です。右手前は馬頭さんでしょうか。磨耗した石仏が置かれていました。

50E-4井刈相沢バス停前の石仏群
山村商店前(テキストは下村商店と誤植)がバス停です。村の老人に石仏の在りかを尋ねても要領を得ず、結局 バス停斜め前の顕彰碑の傍から自力探索で発見しました。車庫の木陰に追いやられた5基の石仏です。いずれも年不明で前列左から彫りの深い二十三夜塔はこちらです。明治6年双体道祖神ですが女神は薬缶持ち?男神は茅ノ輪?持ちでしょうか。念仏供養塔は自然石に文字をほりつけたものです。後列は聖観音でしょうか蓮華持ちの崩れた像様です。隣は文字庚申塔です。いずれも相当な大きさでもっとゆったりと並べてあげたいところです。

50E-5明神橋・火の見下の文字道祖神
バス停明神橋に火の見があります。そこから右手に降りた村道の生垣にガイドで「文字・彫り・石材とも・・明治文字碑の優品である」と賞賛された明治四年文字道祖神があります。寄付者60人。傍に誦読塔などの残欠3基も立っていました。

50E-6久保製作所前の石塔
少し進むと左手に久保製作所という事務所工場があります。道路沿いに庇を張り出して5基の石塔が並んでいます。文字碑ばかりですが左から2基共寛政三年(1791)の庚申塔・天明七?年念仏供養塔・年不明道祖神・安政二年(1855)筆塚となっています。大きく分かりやすくていいのですが石仏の宝庫として期待したものとはちょっと違う展開です。

50E-7倉庫前バス停の石仏
更に進むと五常西宮集落に入り広い舗装道路となった傍らに片付けられた石塔石仏が置かれています。左端は個人の喜寿記念塔です。馬頭観音塔、残欠、百番供養塔と並んでいますが狭くて埃まみれで可哀想ですね。
少し進んだとところにも二十三夜塔、道祖神、明治13年馬頭観音が道路際に並んでいました。見逃しましたが二十三夜塔には「伊那郡野口村竹村平兵衛」と伊那石工の名が刻まれているそうです。

50E-8上郷バス停久保氏宅の双体道祖神
久保氏の邸宅内の石祠?傍にあります。ご主人に案内していただいて拝見しました。矢張り地区最古と見られる双体道祖神を訪ねて研究者が時々こられるそうです。テキストでは「天正五年(1577)銘だが・・・久保家が住み着いた年号で・・・江戸中期ごろか」という肩抱握手の双体道祖神です。今も大切に祀られておりました。久保家の先に西宮子安神社があります。入口の道路沿いに磨耗した双体道祖神・陽石・寛政六年(1795)六千部供養塔があります。六千部供養塔は石が甘くご覧のように崩れています。テキストには高遠石工の名が刻まれていると載ってはいましたが。

50E-9旧善光寺街道沿いの石仏
会田宿に入り旧善光寺街道の表示があるところを左折すればまっすぐな上り道が整備されています。少し上ると右手に生活改善センターの敷地があります。その隅に牛頭天王と表示された石塔が置かれていますが、自然石のようで何の細工も見られません。お賽銭が揚がっているところから祀られてはいるようですがちょっと不思議な気がしました。牛頭天王をWikipediaでお勉強しておきましょう。
更に上っていくと安政二年(1855)善光寺常夜灯が左右に立っています。中島誠之助さんなら「伊那石工はいい仕事をしてますねえ」と言いそうな作品です。
街道沿いに平成18年双体道祖神・年不明焦げ色道祖神や割れた石仏(右手与願印?左手蓮華抱き?)などが整備されて祀られています。途中で次回に立ち寄る広田寺への参道入口があるところを右に見て更に上っていきます。
50E-10岩井堂の芭蕉句碑など
善光寺道を上りつくと村はずれにあたる所に無量寺参道入口と標記され石仏石碑が立っている一角があります。石門柱には法論當持などと刻まれています。地名は岩井堂になるようです。石垣角に嘉永三年(1850)松澤喜一塚の石塔がありなにやら詳しく刻まれていますが地元の俳人?。傍の弘法大師袈裟掛松の下にスマートな元治元年(1864)大黒塔も立っています。甲子塔として立てられているのがよく分かります。そして嘉永二年(1849)芭蕉句碑が善光寺道に沿いに立っています。江戸かなの教材です。右碑面を拡大し左の解説板と比べながら、かな読みの練習ができますよ。
この先の道路端にも肩抱手繋道祖神がおられましたが、よく見かけるタイプということですね。50E-11岩井堂観音の磨崖仏
芭蕉句碑から300m程上れば岩井堂観音への上り口階段がある駐車場です。鬱蒼とした木立のなかの山道を上れば岩井堂観音の前に出ます。岩井堂観音は信濃三十三観音の第廿番札所で善光寺参りの旅人も訪れ賑わった所と書かれています。「11体の磨崖仏、52体の百観音が点在している」との解説板ですが、時代が過ぎたのでしょうかほとんど見つけられませんでした。特に磨崖仏は岩盤が崩れた跡もあって2体しか見つけられなかったのは残念ですね。尤も技量不足と夏バテと「松茸山立入禁止」文言も少し影響してるかも知れません。
観音堂の左手前には大師堂があります。そして観音堂の背後の崖下には数体の石仏が取り残されたように置かれています。岩陰の石仏をいくつか見てみましょう。こちらは如意輪観音でしょうか。こちらは与願印の蓮華持ち聖観音と思われます。大師堂の左前方は大岩が競りあがり緑の木陰をバックに2体の石仏が遠目に見えています。よく見ると袈裟衣・頭巾姿で右手に錫杖左手に経巻持ちと思われます。写真判定で役行者と分かりました。Wikipediaでお勉強しておきましょう。日本石仏図典には「一石に前鬼・後鬼を刻んだ像が伊那地方に見られる」との記載があります。この大岩の下にも何体かの石仏ですが、その中に百番観音塔がありました。多分、日本百観音を指すと思われるのでこれもWikipediaから載せておきましょう。大岩を潜り抜けるようにふみ跡をたどれば傍の岩陰に石仏が立っています。逆光で分かりにくいのですが私は勢至菩薩と見ましたが。あたりを見渡すと岩が崩れて踏み跡が途切れてしまいます。この岩に聖観音・如意輪観音磨崖仏が刻まれていたようで崩れて跡形もありません。(テキストに記載はあったのですが)
観音堂にもどり堂前を右手にいくと、高さ2.3m脇侍・供物台付の磨崖地蔵菩薩に出会えます。この磨崖地蔵菩薩のもっと右方の山道を進めば磨崖大黒天に出会えます。途中、思わぬ所に馬頭観音や岩陰に佇む石仏を見出します。テキストには千手観音・大日如来などもあるとのことですが、今回は見つけられませんでした。名残惜しく降りる山道では見上げればゾッとする光景が広がります。無事、降り口についてほっとします。降り口に立つ説明板も読んでおきましょう。

50E-12岩井堂立ち峠の馬頭観音
降り口駐車場から舗装された林道を更に上がっていくと「立ち峠登山口」の標識です。道路反対側に村重要文化財で街道一大きい馬頭観音の説明板があります。光背が欠けているのが惜しいですが味のある文化十四年(1817)馬頭観音です。尚、グーグル地図では観音堂から上の林道表示がもれているのでご注意ください

0 件のコメント: