2010/08/27

84北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅲ

暑い日々が続いて夏バテ気味です。備忘録代わりに載せたいことが山積しているので気は急きますが、
布佐地区には色々な石仏が残っているのでゆっくり見て回りましょう。
84-1勝蔵院の徳本塔
勝蔵院へは愛宕神社の石鳥居から100m程南の角を左折します。道なりに進むと右手に立派な勝蔵院門前に出ます。こちらの山門は新しいものですが、よく見ると阿行仁王様が門柱に彫りつけられています。写真では見えませんが左門柱にも吽行仁王様がおられます。仁王門(柱)ですねえ。門前の手前に2基のお地蔵さんがあります。右は享保十七年(1732)延命地蔵で「奉造立地蔵尊現當二世安楽攸」との銘あるそうですが、全然読めません。左は童子の墓碑ですね。さて石造物所在地リストには、こちらの寺名で石造遺物が55基も収載されていますが主要な石仏は勝蔵院地蔵堂の敷地に祀られています。
寺内から地蔵堂へは本堂左の墓地の脇を抜けて石段を上がります。途中に彫りのよい明和元年(1764)十九夜如意輪塔がおられます。更に進むと右に上る地蔵堂への石段があります。その角は歴代住職の墓地になっていますが、中に文政二年(1819)花押付徳本名号塔が見られます。文政元年に亡くなっているので以前の下総順錫を記念して建立したものかも知れません。石段を上がれば地蔵堂のある敷地です。
84-2地蔵堂の十五夜塔
前回の83-3共同墓地からだと、車で墓地手前の四つ角を西進50mして金網のフェンスに囲まれた地蔵堂に行く事が出来ます。こちらは新四国・相馬霊場21番・37番札所になっています。石仏は大師堂の後方に隠れるように並べられています。映りの良くない写真ですが、大師堂左に見えるのは阿弥陀坐像です。大正8年皇太子殿下御成年紀念の基礎銘があります。祝意の表し方にびっくりですが、この地方では違和感のない当然のものだったのでしょう。地蔵堂裏に回ってみましょう。六体の石仏が出征兵士の慰霊碑を背にして並んでいます。光線の加減が悪いのですが、貴重な石仏なので記しておきましょう。
左から寛文十三年(1673)聖観音・十五夜念仏塔、延宝六年(1678)勢至観音・十五夜塔、元禄九年(1696)聖観音・十九夜塔、寛文十三年(1673)来迎印阿弥陀塔、寛永十一年(1634)法界定印の胎蔵界大日如来塔、宝暦六年(1756)湯殿山大権現石祠となっています。この十五夜塔は初出で県下でも上限かそれに次ぐ古さといわれ貴重なものです。十五夜待は月待信仰の源流とも言われ、別名満月・望月(もちづき)ともいわれます。このブログでは十五夜・十六夜・十七夜・十九夜・二十三夜・二十六夜まで見てきています。十九夜塔はポピュラーですが、我孫子を巡る石仏紀行ではその他二十六夜塔・十七夜塔・十六夜塔・十三夜塔が出てきます。特に十三夜は東葛地区では他には見られないそうで楽しみですね。我孫子には十八夜・二十夜・二十一夜・二十二夜塔はないようです。唯、我孫子町史で一色勝正氏が中峠・長光院の聖観音石仏を日付と碑文から十八夜待の参年成就碑と推定されています。
寛文十三年十五夜塔延宝六年十五夜塔
元禄九年十九夜塔寛文十三年阿弥陀
寛永十一年大日塔宝暦六年湯殿山
大正8年阿弥陀坐像の左は庚申塔など8基の石仏が集められています。
左列前は寛保壬戌(二年・1742)水神?とガイドに表示されています。碑面に「金龍海」を標していてなんじゃらほい?おまけに智拳印?を結んだような坐像で水神なのかなあ。石造物所在地リストでは布佐新々田火の見櫓旧在ながら現在所在不明とされていますが、どうやらこの大師堂に安住の地を見つけたようです。
その後も火の見櫓旧在の文政十一年(1828)文字庚申塔です。その奥3列目は傷んだ年不明廿三夜塔となっています。中央にあるのは明和二年(1765)六臂合掌青面金剛塔です。その後は年不明文字庚申塔残欠があります。右の列は手前から文化四年(1807)萬人講の標識、その後ろが寛政七年(1795)文字青面金剛塔、三列目は天明二年(1782)弐十三夜供養塔となっています。
また墓碑がごろごろしていますが、敷地南側に勝蔵院から上がってくる石段の上部踊り場に戻ってみます。そちらに4基の石碑が並んでいます。右から文政二年(1819)建立の和田氏墓碑で明応九年(1500)より三百二十年周年を記念しての建立です。その左は昭和八年「布佐和田城址和田塚略記」で當所が和田義盛の居城であるとの口伝を記したものです。隣は昭和9年和田八幡祠です。和田氏を氏神様にしてしまったのでしょう。左端は大谷石に嵌め込まれた種子一尊・青石塔婆(板碑)です。ほとんど読めませんが、明應年号(1492~1501)と阿弥陀一尊種子を刻んでいます。今回は夏バテでこれくらいにしておきましょう。

より大きな地図で 84北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅲ を表示

2010/08/10

83北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅱ

我孫子市の東端の布佐から西進するルートで石仏探訪を進めましょう。

83-1愛宕神社下の石仏
延命寺から50m西進すると愛宕神社の鳥居と石段が左手に見えます。神社敷地の斜面の通路沿いに庚申塔などが9基ほど並んでいます。写真の斜面奥上部に愛宕神社の朱色の社殿が見えています。これらの石仏石塔は東消防署脇や布佐中学裏などにあった石塔も持ち寄って並べたようです。取り立てて面白い石仏はありませんが、一通り見ておきましょう。
左から嘉永五年(1852)文字庚申塔・文化二年(1805)観音経供養塔・明治14年馬頭観音塔・不明石祠・文化三年(1806)馬頭観音塔残欠・文政十三年(1830)文字庚申塔・文化三年(1806)百観音巡拝塔・嘉永二年(1849)普門品塔・弘化五年(1848)文字庚申塔となっています。碑面が荒れていて紀年銘など読み取れない石造物は興味が半減するのが辛いところです。嘉永二年普門品塔は「嘉永二龍集」と刻まれているらしいのですが。

83-2愛宕神社の石仏
先ほどの神社下の手前に愛宕神社の石段があります。愛宕信仰をWikipediaで見ておきましょう。石段を上ると2基の石祠が置かれています。右の小ぶりの石祠は元文三年(1738)疱瘡神石祠です。左の石祠は文政十三年(1830)子安大明神石祠?と推定されます。これもテキストと照合しないと分からないくらいに碑面は荒れています。進んでいくと境内の拝殿脇に石祠が立派に祀られています。弘化二年(1845)石尊大権現石祠です。大天狗子天狗と刻まれているので大山でなくて富士信仰によるものでしょうか。今まで見てきた石仏は全部が19世紀になってからのもので、このあたりはその頃から人口や村落増加となり始めたのでしょう。

83-3共同墓地の石仏群
先ほどの愛宕神社下の石仏が並んでいる坂道を登っていくと、共同墓地が左手下に拓けます。入り口に六地蔵などが迎えてくれます。六地蔵は雑草に隠れそうな小さな地蔵です。野辺にされされて荒れていますが、れっきとした元文四年(1739)頃にに祀られたお地蔵です。柄香炉を両手で持った法性地蔵が享保十九年(1734)、右手錫杖・左手如意珠持ちの延命地蔵が元文二年(1737)で残りのお地蔵が元文四年の紀念銘とテキストに載っています。筆者は左端の地蔵で元文四年を読めましたが、全部は読みきれませんね。六地蔵のならびに十九夜塔が3基並んでいます。左に寛政六年(1794)と文化三年(1806)の十九夜如意輪観音塔です。六地蔵の右にあるのが寛延四年(1751)の十九夜塔になります。六地蔵の左後方に小さな文化九年(1812)の聖観音がひっそりと佇んでいます。普門品一万巻供養の文字が刻まれています。金石編に十九夜・聖観音と載っていますが十九夜の根拠は何でしょう?後で分かりますがこの先にもう1基の文化九年十九夜塔があります。調査時に重複誤記したものと思い違えて十九夜を付け加えて表示したのではないでしょうか?
という訳で墓地内に入り坂を下り始める所の左手に6基の石仏が祀られています。左端の角塔几帳面は天明七年(1787)大乗妙典日本廻國塔です。右手前にあるのは當所霊場十六番と表示がある札所塔です。奥のほうに十九の文字が見えているのが先ほどの写真の文化九年十九夜如意輪観音塔です。手前の赤色は寛政九年(1797)馬頭観音塔です。六臂の馬口印でない合掌手です。右端の大きな延命地蔵が元禄十三年(1700)「奉造立百堂念仏供養・・」の銘をもつ百堂念仏塔になります。日本石仏事典からの引用すると「農閑期に村人が講を作り、村中および近隣の祠堂百箇所を数日間かけて巡拝し、念仏を唱える行事である。百堂を巡拝し終えることで村人の願望が成就され、供養塔が造立された。関東に二、三ヶ所局地的に遺存する。・・埼玉県三郷が巡行に重点を置くのに対し茨城県岩井・守谷は念仏を主眼とする・・」と述べられています。「続房総の石仏百選」にもI副会長が「埼玉・茨城・千葉県下で180基余が確認されている・・・利根川水系独特の念仏塔である」と記されています。その特色ある石仏がこの布佐にも存在しているというわけです。
今回はこれくらいにしておきましょう。

より大きな地図で 83北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅱ を表示

2010/08/03

82北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅰ

今回から旧沼南町の北に位置する我孫子市を巡ります。我孫子市は北に利根川、南に手賀沼を控えた東西に長い地形です。人口14万人で「北の鎌倉」とも呼ばれ、志賀直哉・柳宗悦など有名文化人芸術家と縁の深い街です。詳しい地勢はWikipediaで確かめておきましょう。
利根川の水運に恵まれ古くから開けたせいでしょうか、難読の地名も多くてびっくりしますよ。
クイズですが、次の地名はなんと読むでしょう。久寺家・都部・中峠・日秀の四つの地名です。
正解はクジケ・イチブ・ナカビョウ・ヒビリと読みますが、皆さんはいくつお分かりでしょう?私は一つも読めませんでしたが。
テキストは我孫子市史資料金石文編ⅠⅡ ・我孫子の石造物所在地リスト・故榎本正三先生の「河岸の人々の暮らし」・石仏地図手帖千葉編等を参考にします。
JR常磐線我孫子駅から東方にJR成田線が分かれています。細長い我孫子市をそのJR成田線と国道356号線が背骨のように貫いています。その東のはずれが今回巡る布佐地区です。

82-1網代場の観音堂
筆者の郷土の偉人・柳田国男は利根川対岸の布川で少年時代を過ごした縁で、ローカル誌に過ぎなかった赤松宗旦「利根川図志」を世に紹介し後世まで知らしめてくれました。「利根川図志」に「松尾芭蕉が鹿島紀行で布佐の鮭の網代の漁家に息(やすら)い・・・今は網代場の名を残せり云々」と記述があります。江戸時代迄は鮭の遡上でこの辺りまで漁場だったようです。その縁で網代場の字が残り、江戸への鮮魚輸送の中継点として賑わったようです。元禄年中に鮮魚輸送の荷宿や馬持ちがこの(馬頭)観音を祀りました。文化二年(1805)鮮魚商の隠居が布佐村内に坂東三十三観音霊場写しを設けましたが、面白いのはその石造物遺物があちこちに残されています。又、そのような環境のため鮮魚商に縁のある記載が目に付きます。よく知られているのは文化四年(1807)網代場若者中が寄進した手水石で、裏面に東京「魚河し」の追刻があり日本橋魚河岸との貴重な関連資料とされています。又観音堂の写真左にある昭和33年寄進紀念碑には、北千住・成田などの鮮魚商の名前がずらりと並んでいます。よく見ると鮪問屋・鯛問屋などの記載もあって面白いですね。
さて、石仏ですがこちらは十九夜塔がしっかりしています。
安永八年(1779)十九夜塔
享和二年(1802)十九夜塔
下の写真で三十三観音写しは右から十一面観音塔十二番寺音(慈音)寺写・十一面観音塔十七番いづる(出流山)満願寺写・千手観音十九番大谷寺(残欠になり判読不能ですが榎本氏テキストから参照引用)・聖観音二十七番銚子円福寺写と並んでいます。
他にも明治12年廿三夜塔・慶応の馬頭観音塔・大正6年子安塔などなどが祀られています。尚、お堂内には魚籃観音も祀られているそうですね。

82-2布佐の水神社
我孫子市史研究センター発行「手賀沼べりの道今昔」に収載の近江礼子氏論文「手賀沼べりの水神信仰」によると、我孫子市内に水神社は現存6箇所です。布佐の水神社は文化二年(1805)以前の創設で「杉山家の氏神カ、天地水神と称す・・」と載っています。祭神は罔象女神(みつはめのかみ)です。水神社と表記しましたが、お堂の額は「水神宮」となっています。小さな公園の片隅に昭和4年の明神石鳥居があります。お堂の側、敷地の塀際に石仏が窮屈そうに並んでいます。写真手前から大正6年阿夫利神社碑・昭和4年佐留多彦大神碑・明治17年月讀尊碑・明治11年文字庚申塔と続きます。佐留多彦大神は三猿が付いていませんが庚申塔の神道系バージョンと理解しましょう。石塔は諏訪石祠・不明石祠・文化二年(1805)「當所霊場三十三番水神宮」・同年「當所霊場三十二番諏訪宮」・明治七年庚申塔?・年不明「水神」碑で合計10基の整列です。利根川沿いの町・舟運関係などで水神様に祈る生活が続けられていたのでしょう。近世・近代になっての町の賑わいを、仄かに留めている姿が哀れにも思えますね。

82-3延命寺の六阿弥陀
観音堂から国道356号線を700m西進すると道路右に真言宗豊山派延命寺があります。入り口に5基の石塔が固まって置かれています。まず門柱脇に文政十年(1827)「六阿弥陀第弐番」の石柱があります。これは総州六阿弥陀詣の札所第二番を表示しています。「総州六阿弥陀詣」は文政年間(1818~1829)に対岸の利根町布川の住人星野一楽によって創設された札所巡りです。一番は布川にある間引き絵馬で有名な徳満寺です。二番がこちら延命寺です。三番は10-5で紹介した印西小倉の泉倉寺ですね。時間のある方は2008年12月のNo.10をご覧ください。四番は第6回-1で訪れた大森の長楽寺です。石柱は載せ忘れましたがこちらには二童子付の青面金剛庚申塔がありました。五番は第13回-4の竹袋の三宝院です。入り口に五番石塔がありましたね。六番は茨城県に戻り布川の不動堂となっています。途中の印西市発作に「六阿弥陀回向所」標柱が発作最勝院にありましたね。
さて、石塔は左から天保四年(1833)子安塔ですが像塔の劣化が進んでいて紀年銘はガイドからの転記です。隣は昭和24年門柱建立記念碑と思われます。立派な廿三夜塔は「龍舎辛未文化八・・」表示で文化八年(1811)建立です。「龍は木星を表し一年に一周行するので年の終わりを意味するが年号を強めるためにも使用される・・」と日下部著石仏入門に載っています。右端の一番大きな名号塔は天保五年(1834)です。布佐河岸は舟運が良いのでこれだけ立派な石材を運んでこれたというわけですね。
さて、境内は整備されてガイドブックにあるような石造物群は見当たりません。庭の内に見つけた補修された十九夜塔は文化五?年と見たのですがガイドにはありません。ガイドにある元禄七年・正徳三年の如意輪観音十九夜塔はどこにいってしまったのでしょう?

より大きな地図で 82北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅰ を表示