2010/09/30

87E 目黒の石仏Ⅱ

前回の蟠龍寺から更に進むと羅漢寺の信号があります。山手通と分かれて右方向へ道成に進みます。信号から100mで海福寺の参道です。
(ガイドブック 日本石仏協会編「江戸・東京石仏ウォーキング」)
87E-1海福寺の永代橋崩落横死者供養塔
このお寺は元は深川にあった禅・黄檗宗のお寺です。詳しい解説は表示板をお読みください。
このお寺での見学は山門前の永代橋崩落横死者供養塔、朱塗りの四脚門、梵鐘の雲形裾模様が見所とガイドにも載っています。
深川通りにあった海福寺には文化四年(1807)富岡八幡宮の大祭で崩落した永代橋の溺死者440名の回忌供養塔が建立されていました。明治43年に現在地に移転した折、これら供養塔もこちらに移設されたと表示されています。それぞれの見所と解説板を載せておきましょう。尚、四脚門はWikipediaをご参照ください。
境内には梵鐘以外にも、武田信玄の屋形に置かれていた9層石塔などもありますよ。
87E-2五百羅漢寺の羅漢さん
海福寺を出て30mで五百羅漢寺です。近代的な装いになってお寺の雰囲気がありません。
入山料五百円が必要です。入り口を入ってすぐに出来のよい享保五年(1720)庚申塔が祀られています。
こちらには305体の羅漢さんと9の目を持つ獏が回廊式の展示室に安置されています。木造釈迦三尊像と羅漢さんは都指定文化財となっています。お寺の解説を2連発で載せておきましょう。
上の解説板で五百羅漢は昔、螺旋階段状のさざえ堂に収められていたと表示されています。栄螺堂(さざえどう)はおさえておきたい仏教施設なのでWikipediaで見ておきましょう。屋内は写真撮影禁止なのでパフレットで代用させていただきます。

境内には碑の小道があって、魚の形をした包魂の碑や原爆の碑・高浜虚子の句碑などが並んでいます。
87E-3 成就院の阿(お)静地蔵
五百羅漢寺の前のT字路をまっすぐ100mで正面に蛸薬師の成就院があります。「ありがたや、福をすいよせるたこ薬師」の看板の下に7体の石仏です。大きくてなかなか見応えがあります。
中央が施無畏与願印(せむい よがんいん)の阿弥陀如来、右の三体は右から准胝観音・聖観音・十一面観音となっています。左の石仏は金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵と持物からの名前です。このお地蔵はお静地蔵といわれ二代将軍秀忠の側室お静の方が、息子保科正之の高遠城主就任のお礼に他の石仏と共に発願奉納したといわれているそうです。(慶長年間)この麗しい話は46E伊那 高遠の石仏Ⅰでも述べているのでご覧ください。保科正之は高遠城主だったのですね。
この石仏と対峙するように外壁沿いの一角に石仏が4基置かれています。左から元禄九年(1696)笠付六臂合掌青面金剛塔、天保十年(1839)地蔵坐像名号塔、年不詳聖観音、貞享四年(1687)読誦妙法蓮華経一千部供養塔となっています。

87E-4 安養院の石仏
成就院を出て左へ80mで安養院の参道です。参道植え込みに交じって石仏が置かれていますが、いずれも墓標なので私流でさっさとパスですね。参道を進むと狛犬でなくて中国の宝獅子が対で奉納されています。解説板によると、中国では宝獅が古刹寺院などの守護として祀られていることから、銀座の食品会社社長が200年前の逸品をこの寺に寄贈したようです。
山門左にガイドにある元禄十七年(1704)の六十六部回国塔があります。
山門を入ると左の築山にガイド記載の田の神が置かれています。(ちょっとガッカリの出来ですが)又、参道の脇に赤いちゃんちゃんこを着たお猿さんが座って愛嬌ですね。
本堂の左手前に天和二年(1682)の丸彫り観音が2体祀られています。本堂右手の岩蔭もガイド写真にあった現代風大黒様が祀れていますが、お顔が大きくて深刻そうな感じ(憤怒相?)でちょっと不気味です。
本堂の右手前に荒れた感じの観音堂があります。その脇に3.6mもある立派な延宝三年(1675)念仏供養塔が立っています。



この塔は庚申講で建立した念仏塔であるとの品川区教育委員会解説板があります。しかし果してそうなのだろうか?と疑問ですね。何故なら写真に載せておきましたが、左側面の観音経の偈文刻字と庚申講中の刻字が余りに落差があり過ぎることとバランスが悪すぎると思われます。筆者の意見は建てられた後に改刻(追刻)したものでないかと思います。明確な出典が無く石塔の表示だけで講中が建立したと判断するのはちょっと無理でしょう。
私好みの石仏群は右手墓地の入り口辺りに並べられています。西口参道に沿って開眼地蔵・腰立地蔵の表示があります。延命地蔵・子育地蔵・頭部に馬頭観音を刻み無縁法界と刻んだ石塔はやはり馬頭観音塔というのでしょうか。万治元年?の三界萬霊塔などもあってこちらの石仏群に対してこそ解説板が欲しいものです。

当寺墓地の西北角地に安芸国太守浅野長晟夫人を祀る延宝七年(1679)五輪塔があります。周りに6体の観音像が五輪塔を守るようにたっています。夫人付の6人の侍女を模してお墓を守っているとガイドに載っていました。写真には4体しか載っていませんが手前にあと2体の観音様がおられます。



87E-5 目黒不動(瀧泉寺りゅうせんじ)の石仏
安養院の西口を出て左へ北上100m余りで目黒不動の入り口広場・境内です。目黒といえば目黒不動さんですね。江戸五色不動の一つなど薀蓄はWikipediaをご覧ください。昔は庶民の行楽地でもあり、富くじが行われたところでもあったんですね。広い境内の見所は下の案内図をご覧ください。
入り口のある平地の境内は富くじを楽しみに来た人たちの抽選会場でもあったのでしょうか。文政十一年(1828)などの大きな石灯籠が広場の中に佇立しています。本堂へ向かう正面石段を分けて、右手に進めば地蔵堂・閻魔や奪衣婆が控える精霊堂・刷毛筆供養塔などがあります。
上の写真で西川春洞先生の巨大な碑があります。日本書道界の巨頭であることはWikipediaで「近現代書の人脈」で確認ください。
石段左は独鈷の瀧と水掛不動・多くの石仏が斜面に並べられた池や前不動堂などの史跡が広がります。
斜面の庚申塔は貞享三年(1686)とか寛文十二年(1672)などが確認できます。寛延三年(1750)垢離場敷石供養塔のある独古の瀧水垢離場では今も修行が行われているのでしょうか。
石段を上れば本堂ですが、上ったすぐ右手に面白いものを見つけました。赤文字で「第一區筒先」と表示のある金属製の宝塔があります。軸部には西に阿弥陀など四方仏が刻まれておりますが、蓮座の下の台縁に注目です。火消しの纏印が記されていてGoodですね。ちなみにWikipedia火消しの項目も面白いですよ。
水難を厄除けする意味で信仰が篤いのでしょう。立派な本堂と本堂裏の天和三年(1683)大日如来坐像は必見ですね。
 
青木昆陽の墓地は境内を出て寺の北西に表示があります。普通の墓標ですが国指定史跡になっているので写真を載せておきましょう。墓前右前はキャ・カ・ラ・バ・アの梵字から現代風五輪塔と見えて面白いですね。
次の目黒不動墓地へ行く時は女坂の石段を下りましょう。途中に寛政八年(1796)役の行者の銅像が見れますね。でも、その控えに見える石像は一体誰でしょうね。

87E-6  目黒不動墓地の石仏
目黒不動を出て林試の森公園あかしあ門を目指します。その手前が瀧泉寺墓地となっています。門扉の前が休憩所です。その中に寛文十一年(1671)の釈迦如来がおられます。

道路沿いの柵に沿って17体の石仏がおられます。ガイドには13体と載っているので4体増えたことになりますね。

右端の明和五年(1768)三界萬霊塔は右左の表示があることから道標でもあったようです。続いての16体の石仏は墓標の優品を並べてあるようです。ほとんどに戒名を刻んでいて私の見仏対象の外ですが、ガイドに記載もあることから載せておきましょう。

萬霊塔に続いて地蔵坐像1体・延命地蔵3体・千手観音・馬頭観音・聖観音・阿弥陀如来・聖観音・如意輪観音・不空羂索観音・延命地蔵4体・如意輪観音となっています。
ガイドブックには「十一面観音・千手観音」の2体があるとの記載です。それらしきものは2体ですが、私はこれを千手観音・不空羂索観音と見ております。下の写真で頭部の化仏だけでは分かりませんが十四臂もあれば千手観音とみてしまいたいですね。日本石仏事典に山形立石寺の十一面観音口絵写真が正面同じ手組みで載っています。

問題は下の写真で頭部に化仏を抱き、八臂合掌姿の石仏が良く分かりません。十一面観音ではないとするとなんでしょう?

佐和隆研「仏像図典」に三目八臂の不空羂索観音が載っています。写真を拡大してみると額に一目があるような気もします。右側の手に数珠のような
羂索もみえるのでやや強引ですが不空羂索観音と表示しました。そうであれば非常に珍しい石仏ということになるのですが、違ったとしても、「まっ、いいか」ということで今回の打ち止めとしましょう。

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2010/09/17

86E 目黒の石仏Ⅰ

日本石仏協会編ごま書房刊「江戸・東京石仏ウォーキング」にNo.11目黒不動界隈の石仏巡りが載っています。酷暑の1日、3リットルの水分を補給しながら見て回ったので備忘録を載せておきましよう。都区部と言え、ガイドブックの略図では分かり難いのでgoogle map がお役に立つかも知れません。区名や駅名が目黒不動から採られたと解説されていますが、そのJR目黒駅から出発します。
86E-1大円寺五百羅漢石仏群
目黒駅西口から雅叙園へ向かう行人坂を200m程下れば大円寺です。その手前に「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」宝永元年の説明板とお堂があります。
解説板に載っている西運さんは八百屋お七に惚れられたお坊さんですが、その縁は下の解説板に詳しく書かれています。

大円寺の石仏群は入ってすぐの右手斜面にひな壇状に置かれています。
境内には文字庚申塔3基が塀際に並べてあります。左手前の寛文七年塔の三猿は雌雄のシンボル付だそうですが、どうでしょうか?
現代版七福神や元禄十六年(1703)行人坂敷石供養碑などもありました。
86E-2田道庚申塔群
大円寺の坂道を下り目黒川を渡って川沿いに700mほど北上します。勤労福祉会館を過ぎて橋の手前に出ます。三叉路に欠けた文字庚申塔が祀られているのを見て左折します。
田道自治会館の側にある覆屋の下に6基の庚申塔と延宝元年(1673)念仏供養地蔵塔が祀られています。青面金剛は左から正徳三年・元禄五年・同八年・延宝八年・元禄八年・延宝五年となっています。
86E-3十七ケ坂庚申塔
先程の田道庚申塔群から山手通に出て横切ります。渡った所から左に2本目の辻、11階建おおとりスカイホームと駐車場の間を道なりに300m進むと十七ケ坂右側に柵に囲まれた庚申塔に出会えます。(ここを探すまでに30分のロスタイム)
都内でも古い寛永三年(1626)寶篋印塔型庚申塔があります。塔身中央に「庚申供養過去」右列に「未来現在」左列に「三世佛」と読めますねえ。他にも明暦三年(1657)文字庚申塔など解説板をご覧ください。
86E-4馬喰坂の庚申塔
十七ケ坂庚申塔を出て更に進むこと150mで四つ角左が、馬喰坂の4基の庚申塔です。墓地の一角の高みにあるのでちょっと見づらいですね。解説板も載せておきましょう。
蛇足ですが、この馬喰坂の庚申塔の辻を横切って50m進むと不思議な金属や石像の彫刻が置かれた広場があります。長泉院付属現代彫刻美術館の入り口です。興味有る方にはいいでしょう。
86E-5大鳥神社の庚申塔
山手通に戻ります。五反田方向へ南下します。大鳥神社の交差点の角にあるので分かりやすいです。拝殿左側で石仏の整列です。
左端に置かれた力石も石仏分類に入っているのが楽しいですね。庚申塔は右から元禄元年笠付合掌青面金剛、宝永元年合掌青面金剛、燈籠竿部残欠、元禄元年ショケラ持青面金剛、神楽塚、この中で一番古い延宝三年(1675)三猿庚申塔、蜀山人の書で目黒鳥石と刻んだ奉納力石(テキストから引用)となっています。
86E-6大聖院の切支丹燈籠
お隣が大聖院です。門を入った右奥に3基の切支丹燈籠です。一時期は流行ったのでしょうが、信仰内容が確認できていない流行物も多いようです。

個人的には境内左手塀際に並んだ石仏群のほうが面白いと思います。宝永三年名号塔は正面上部に地蔵座像と「目黒ちん守・・」と記し左に六字名号を刻んでいます。昭和12年の母子地蔵は夫の東京市電勤務中に母子5人が焼死した供養塔であるとガイドに載っています。木陰で見難いですが、宝永三年・百観音供養塔の側面6観音をしっかり見ておけばちょっと得した気分になれますね。
86E-7蟠竜寺の弁財天
更に山手通沿いに200mほど進むと蟠竜寺の参道となります。ガイドに載っている元禄十一年丸彫り地蔵、寛政七年結界石、安政四年岩屋弁天標柱、安永四年荷葉座名号塔(蓮の葉を象った台座を荷葉座[かしようざ]といい,主として天部像などに用いられる・・・平凡社世界大百科事典)を見ながら本堂に向かいます。本堂右の低い岩屋に八臂の弁財天がおられます。金光明最勝王経・經軌に「常に八臂を以て自らを荘厳にし、各弓、箭(や)、刀、矟(ほこ)、斧、長杵、鐵輪、並びに羂索を持つ」となっていますが果してどうでしょうか?左脇侍は巳(へび)ですね。
お化粧した余りを自身の顔に塗れば美人になるというおしろい地蔵はちっと不気味ですね。お花もなくてかわいそうな気もします。
墓地にある天保八年(1837)徳本塔は徳本行者が亡くなってから20年も経ってのものなので、イマイチの気がします。
今回はこれまでにしましょう。


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