2010/10/22

89北総石仏 我孫子の石仏 江蔵地・新木Ⅰ

江蔵地(えぞうち)と読みます。利根川沿いに走る県道170号線利根水郷ラインの南側の水田地帯です。
その前に前回の布佐下新田で1箇所追加掲載をしておきましょう。
88-6布佐下公民館の寒念仏塔
前回88-3布佐下新田稲荷神社のすぐ東方手前に墓地があるところが公民館所在地です。入り口すぐ左に墓地の守仏の六地蔵が墓標とともに並んでいます。その中に十九夜塔が2基あるそうですが、判別できたのは入り口すぐの文化十四年(1817)十九夜塔だけでした。

本命は居並ぶ小仏の奥におられる丸彫り延命地蔵(紀年不明)の右手前が載せておきたかった石仏です。我孫子市史金石文資料では宝永二年(1705)阿弥陀如来で「寒念仏一百○供養・・」と刻まれているそうです。資料収載写真ではそれらしき文字が読めそうですが、それから30年余の下の現物では全く判読不能でした。

「寒念仏は寒中三十日間、寒夜に諸所を巡りながら鉦をたたき念仏を唱える行法と講中が村堂に集まって和讃・念仏を唱える二通りがある。江戸中期以降各地に造塔された。」と日本石仏事典に載っています。このブログの北総石仏では初見ですね。48E-1高遠の石仏・福伝寺で寒念仏塔を載せておりますので興味のある方はご覧ください。北関東や東北では良く見かけますが、この地区では珍しい石仏でしょう。
89-1江蔵地・水神社の石仏
江蔵地は上・中・下屋敷に分かれていたそうですが上屋敷地区が今では堤防拡幅に取られ河川敷になってしまったということです。集落の端に広場を抱えた江蔵地自治会館があります(江蔵地703番地)。この敷地が水神社の敷地です。ブランコもある敷地ですが、中央に慶安二年(1649)創立で昭和60年に改築された水神社がこじんまりと祀られています。取手小文間(おもんま)から布佐台にかけての輪中水域の鎮守として水神罔象女神を祀った神社です。
神道系ではこの女神を祀り、仏教系では弁財天を祀ることが多いようです。水神罔象女神の解説を引用しておきましょう。
平凡社世界大百科事典には「日本神話にみえる神の名。水の女神。〈みずはのめ〉ともいうが,《日本書紀》神武即位前紀に〈罔象女〉をミツハノメと訓む注がある。ミは水,ツは格助詞,ハは〈早い〉の意。灌漑に用いられる水や火を鎮める水の霊能を神格化したもの。記紀神話では,伊弉丑(いざなみ)尊が火神を生み,病臥したとき,その尿に生まれた神とある。〈罔象〉は,たとえば《淮南子(えなんじ)》に〈水,罔象を生ず〉の注に〈水の精なり〉とある。」
敷地内は水神社と別に不動(明王)堂も並んでいます。そして石仏は塀際でお堂の間に整列してならべられています。石仏も雨風にさらされお肌も荒れてもいて、ちょっと味気ない(有難味のない)雰囲気ですね。
向かって不動堂の左(東)側に10基の石仏です。
元禄十三年(1700)文字青面金剛塔
享保三年(1718)十九夜如意輪塔
文政元年(1861)文字十九夜観世音塔
文化八年(1811)道祖神石祠
弘化二年金比羅石祠・六地蔵などが続きます。
一方、不動堂と水神社の間は石仏8基です。
安永十年(1781)子安大明神像塔
不明六地蔵2基
正徳四年(1714)不明石祠
文化四年など天神宮?他1基
文化九年(1812)馬頭観世音像塔
宝暦十年(1760)十九夜如意輪塔
写真映りのよいものを載せておきましょう。

安永十年子安大明神塔

文化九年馬頭観世音

宝暦十年十九夜念仏塔
後先になりましたが入り口に建てられている江蔵地自治会館の脇に大正八年の河川改修紀念馬頭観音塔(碑)が立てられています。我孫子市史民俗文化財編に「利根川の堤防工事ではトロッコを馬に引かせて土石を運搬したが、自馬をなくした者も無事だった者も心を合わせて此の観音塔を建てた」と馬持信仰の「いしぶみ」を記しています。碑面の河川改修の文字が哀れを誘います。

89-2 江蔵地三叉路の庚申塔
水神社前から200m程南下します。右手に墓地をみて水田の広がる三叉路に庚申塔が5基祀られています。焼香炉もない状況から見て整地の際に集められてきた流浪の涯の居場所のように思われて不憫です。

左から安永七年(1778)文字青面金剛王塔、宝暦十年(1760)六臂合掌青面金剛像塔、文政八年(1825)文字青面金剛尊塔、享保十年(1725)六臂合掌青面金剛像塔、文化三年(1806)文字青面金剛尊塔となっています。
実はありふれた庚申塔ばかりなのですが、ガイド「我孫子の庚申塔」に左端の庚申塔台石に桃持一猿が刻んであるとの情報があり期待して出かけたのですが、残念無念。

写真のとおり台石まで地中深くに埋め込まれていて掘り起こすことが出来ません。桃持ち三猿なら79-2中谷津公園の庚申塔に例がありますが、一猿の桃持ちは初見で期待していたのですが・・・・・
89-3下新木自治会集会所(旧長福寺)の庚申五輪塔
JR成田線新木駅の北側100mの国道356号線沿いに旧長福寺があります。玉桜山長福寺の昭和6年製四角石柱が目印です。中には我孫子消防団第十七分団消防器具置場と火の見櫓があります。

元禄元年(1558)中峠(なかびょう)龍泉寺末として始まり明治元年に廃寺となった経緯にあります。本尊千手観音は昭和63年改築の薬師堂に寛文八年(1668)十五夜念仏供養薬師如来石造と共に安置してあります。敷地奥に下新木自治会集会場があって地域住民の公共施設にもなっています。
ところで消防信号をご存知ですか?火災を知らせる半鐘の撞き方ですが、こういう風に知らせるものだったのですね。
こちらは石仏の宝庫・穴場ですね。明治32年再建の大師堂と先ほどの薬師堂の回りに雑然と興味深い石仏がごろごろと20基近く並んでいます。
お目当ては、日本石仏協会編石仏地図手帖千葉編に載っている寛文十一年(1671)庚申五輪塔です。
覆いかぶさるアオキを押しのけて確認した地輪に明瞭に「奉庚申石尊建立之 東海道下総國・・・」と刻まれています。上部の文言「卍佛法僧宝 烏八臼(うはっきゅうの合字)」も明らかです。
日本石仏事典によると、「烏八臼(うはっきゅうの合字)は室町時代末から江戸時代中期墓標にみられ曹洞宗・浄土宗関係に多く見られる。字義は諸説あるが、有力説はこの文字がカン・タンの変形字で梵字タンを漢字に表したものという。随求陀羅尼経にも見え、滅罪成仏の功徳・吉祥成就・成究意などを表すと説かれている。」
次に注目は天和二年(1682)阿弥陀如来十五夜塔です。碑面右に「総州沖田村信女同行五十八人十五夜間・志念佛造立此一基以■供養」と刻まれています。我孫子近辺では84-2地蔵堂の聖観音・勢至観音十五夜塔が出てきました。白井市・沼南地区では見かけず、印西市の21-1泉集会所の十五夜塔を記した程度です。十五夜講という月待信仰の偏在というか存在の不思議さを実感しますね。
上の写真では十九夜塔が多いのですがその中に天保十三年(二十六夜)愛染明王塔が交じっています。これは文字塔ですが、我孫子地区ではこれから二十六夜の愛染明王像塔が沢山出てくるので楽しみです。写真の左から2基目は元禄九年(1696)文字青面金剛塔ですがシンプルで素朴な形が変わっていますね。
境内に入ってすぐに榊八幡大菩薩の石額を掛けた鳥居があります。祀られているのは明治18年「奇客人神霊」なる文言を刻んだ石祠です。昔、榊原某の埋葬首を供養し祀ったとの言い伝えですが本当に「なんじゃらほい?」
境内の大師堂は方一間、正面唐破風の明治32年の瓦葺堂ですが壁面の素晴らしさに見とれてしまいます。市史には壁面は十六羅漢を表すとの記載があります。一挙に十六羅漢さんを載せてしまいましょう。Wikipedia解説をどうぞ。



今回はこれまでとしましょう。下の地図はマイナスボタンで縮尺を拡大すると他のピンも表示されます。

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2010/10/12

88北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅳ

前回は竹内神社で足踏みしてしまいました。今回は細かい落穂ひろいみたいな感じですがちょこちょこと回ってみましょう。

88-1布佐一里塚跡
前回の竹内神社を出て国道356号を西へ400m、我孫子市東消防署の信号を過ぎるとコンビニ・ローソンが見えてきます。その手前の歩道沿いに石碑が佇立しています。


これが千葉縣が昭和9年に建てた一里塚跡石碑です。裏面に一里塚遺跡「一里塚ハ慶長九年徳川家康ノ築説ニ係ルモノニシテ・・・・里程ヲ明ラカナラシムルト共ニ行路往還ノ旅情ヲ慰メタルモノナリ」の表示が大きな字で刻まれています。我孫子市内では中峠と下ヶ戸に同文の一里塚碑が残されています。

88-2布佐共同墓地の石仏
更に西へ500mほど行くと南側に布佐共同墓地が広がっています。北側にも清陵苑墓地があるところです。入り口入ってすぐに、左右に分かれた六地蔵と3体の馬頭観音がおられます。荒涼とした感じで置かれているので何故かわびしさを誘います。お盆明けの訪問だからでしょう、宝暦二年(1752)六地蔵の前に新しい「先祖の腰掛」が置かれているのが目に付きます。
先祖の腰掛は関西や最近の墓地では見かけないなあと思ったのですが、よく考えるとその代わりに墓石の前などに腰掛石を置く墓地を見かけます。あれは参拝者の為のものと思っていたのですが、実はお盆などに還ってくる先祖の為の腰掛が原型なのではと自分なりに納得した次第です。
馬頭観音は左から享和二年(1802)寛政六年(1794)宝暦二年(1752)の3基です。
他には頭部にキリーク(阿弥陀如来)を刻んだ寛政七年(1795)大乗妙典日本回国塔がすっきりと立っていました。

88-3布佐下新田・稲荷神社の石仏
国道旧356号から成田線の踏切を渡って布佐下新田の村中を目指します。我孫子市民図書館分館前から356号バイパスに沿った村道を400m進めば赤い幟が目印の稲荷神社にたどり着きます。こちらは布佐下新田の産土神です。安永五年(1776)に相馬霊場41番伊予龍光院写しとなっておりそれ以前の創建です。敷地整備された南西の木陰に左側2列6基の石仏と、屋根葺替紀念碑など右に4基の石碑が並んでいます。
前列左から天明四年(1784)青面金剛塔・明和八年(1771)六臂合掌青面金剛像塔・明治17年1884)文字庚申塔です。明治の庚申塔は裏面に「夫庚申講発起先代安政六年(1859)・・・供養建石」となって発起から25年後の建立です。どの石も状態が悪く写真でも良く映らないのが残念ですね。後列は左から天明四年(1784)文字庚申塔・文政十年(1827)勢至菩薩像付二十三夜塔・文久二年(1862)如意輪観音塔(為安産之也と女人講中建立)となっています。

稲荷社の左奥にも三峰神社・水神社・天満宮など小物石祠が並んでいたり、大正6年鯖大師万人講石柱などが雑然と置かれていたりします。興味深いのは塀際に放置された新四国道標の片割れです。
「魚がし・貨物運送者?・・」との記載が、利根川・手賀沼舟運の盛んだった時代の名残を残しています。
88-4井上家住宅と開発済世碑
稲荷神社から更に西進すること500mで井上家住宅に着きます。
 
河岸の町布佐は又、手賀沼の新田開発の基地でもありました。新田開発の中心・井上家住宅は国指定有形文化財となっています。門前の解説板をご覧ください。
又、近くにその開発の経緯を記した3.2m高の開發濟世碑が立っています。日本海海戦の気象予報を出した後の第四代中央気象台長・岡田武松揮毫の碑です。「昭和三年・・相島耕地整理組合設立せられ故井上二郎翁・・・・・水禽の嬉∟遊泳に任せる原野今万頃の美田と化せり・・・」と格調高く続きます。

88-5浅間神社の石仏
更に村道を西へ200m進めば浅間神社入り口です。
道路向かいに浅間前自治会集会場があります。道路から15mほど石段をあがったところが社殿となります。当社は正保二年(1645)の鎮座といわれています。昭和8年改築の質素な社殿拝殿です。石仏は正面石段を上る右手に叢に埋もれるようにして5・6基が祀られています。
左からふっくらとした宝暦四年(1754)十九夜念仏如意輪塔・金太郎さんみたいな宝暦十年(1760)六臂合掌型青面金剛塔・文政八年(1825)文字庚申塔となっています。石段左には文化七年(1810)二十三夜塔がありますが「塔」の書体が異体字となっていて、大変興味深いものでした。
変わったところでは浅間塔というらしいですが、不二講中が作った石塔寄進碑が面白いです。特にシンボルマークが見慣れたものになっています。
天保八年(1837)疱瘡神石祠もなにか現代的なデザインみたいですね。
88-6観音堂の石仏
浅間神社の北西800mの布佐平和台団地の西のはずれに布佐台自治会集会所があります。もともと観音堂の敷地ですが、観音堂を挟んで左に大正二年「東京開運子供会」建立の石造稚児大師像を安置した稚児大師堂、

右には大師堂と石神堂が同居したお堂などが並んでいます。創建は不明ですが観音堂内には三面八臂で蓮華座上に立膝の木造馬頭観音が祀られています。
彩色され取れていた腕も修理されています。寛政九年(1797)光明真言供養の木碑もあると我孫子市史には載っていますが、どれでしょう?悪く言えば覗き見盗撮なので写真ではちょっと無理があるようです。

隣の石神堂の中は文政十一年(1828)石神大明神石祠を取り囲むように木製陽物が林立していました。信仰のなせる業ですが、知らずに覗き見るとぎょっとしますね。
さてお目当ての石仏石碑は整地された空き地に乱立しています。その数36基ばかりですが、墓碑が7~9基交じっていますが荒地に只置かれているだけのお姿で、このままでいいのかなあと心配になりました。
 内訳は庚申塔4(青面金剛像塔1・文字青面金剛2・文字庚申塔1)、十九夜如意輪観音像塔4、二十三夜文字供養塔2、馬頭観音3(像塔1・文字塔2)、大乗妙典日本回国塔3、出羽三山塔2、普門品塔1、疱瘡神石祠1、天神宮1、伊勢參宮記念碑1、新四国道標2などがあります。気になる石仏を記しておきましょう。    

文化元年勢至種子サク付
二十三夜塔でかっ!

明治13年三山式?
馬頭観音塔

出ました享保十四年
アーモンドヘッド青面金剛塔
 
寛政六年観音種子サ
観音経十九夜シンプルです
今回はこれくらいにしておきましょう。googleマップのポイントピンにサムネイルをつけました。

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