2010/11/26

92北総石仏 我孫子の石仏 日秀(ひびり)・中里

前回の観音寺から成田線を越えて南下し、県立湖北高等学校の南東位置に雑木林の中の将門神社があります。
92-1将門神社
我孫子市史に「日秀では天慶三年(940)に戦没した平将門の霊が遺臣たちと共に明神下から日秀まで手賀沼を騎馬で渡り沼のほとりの丘で朝日の昇るのを拝したと言い伝え、その伝説の地に一宇を建てて霊を祀り鎮守とした」のが将門神社のおこりと記しています。日秀の住人は桔梗を嫌う事(愛人桔梗前の裏切り)やキュウリの輪切りをしない事(将門の家紋)や将門調伏の祈願をした成田山にお参りしない禁忌習俗なども載せてあります。本当に!!!
さて、朱塗欅造・稲荷鳥居は紀念不明です。
稲荷鳥居とは一般的な明神鳥居の形式ですが柱頭に台輪が付いているものをさすそうです。確かに柱と島木の境に輪っかが付いています。鳥居の勉強はWikipediaをご覧ください。境内はがらんとしてそっけないくらいです。正面の石垣上のお社は昭和30年製です。境内の石造物は大半が明治以降のもので、明治5年の天照皇大神宮石祠・同手水石・明治27年大日如来石祠?・明治28年三峰神社石祠・明治28年月山主尊出羽三山碑などなど明治期からの村の行事に付き合った形見のようなものが置かれています。
将門神社とはいえ「どこが?」と突っ込みたくなりますが、鳥居の扁額に平親王将門大明神と載せてあるのでみておきましょう。尚、石造物一覧では元禄十五年(1702)水神石祠が一番古いものですが不明石祠になっていて読めないですね。
92-2中里の諏訪神社
県立湖北高等学校の脇を抜けて分かりにくい道の先に諏訪神社があります。
天正四年(1576)の創建で旧中里村の産土神として奉祀されてきました。明治41年に熊野神社(天正五年創建)外川神社(天保二年創建)水神社・稲荷神社・山王神社・弁天神社の諸社が合祀されました。
これらの事情は解説板・中里諏訪神社の由来に詳しいので大型サイズの写真を載せておきましょう。
石造物リストもも網羅されています。これだけ詳しく載せている解説も出色ものです。
確かに整然と祀られているのですが、ちょっと窮屈そうなのと解説板に盛大な行事が知るされている間のギャップを感じてしまいます。
92-3手賀沼殉難教育者之碑
戦前の昭和19年湖北から対岸手賀に渡った千浜校長以下19名の女性教員が遭難した事件の慰霊碑です。
これはあらゆる郷土史資料に出てくる割に所在がイマイチ分かりにくいところにあります。実見される方は年に何人おられるかどうかでしょう。合掌
今回は意外と暗い印象の社巡りでしたが次回は明るくパッとやりましょう。

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2010/11/12

91北総石仏 我孫子の石仏 新木Ⅲ日秀中峠

91-1地蔵院(上新木青年館)の十六夜念仏塔
大師堂から国道356号線を300mほど西進すると上新木青年館のある地蔵院です。開創不詳ですが前回の大師堂前にある宝永五年(1708)道祖神石祠に「導師芝原龍泉寺・・・当新木村地蔵院」とあるところから江戸前期に寺院が営まれていたようです。永く無住だったようですが明治30~35年にかけて千体地蔵の奉納が盛んに行われたと我孫子市史に出ています。松貫を縦二つ割の一木造りで衣に墨塗りで顔に肌色彩色、背に祈願奉納者名など追善供養の地蔵が主体です。

総数1227体を数える千体地蔵は昭和57年完成の地蔵堂に納められていてガラス越しに拝むことが出来ます。
墓碑まじりの石仏群はこの地蔵堂の裏、西側塀ぞいに並んでいます。手前に見えるのは元禄九年(1696)と結構古い丸彫延命地蔵です。手前には明治30年代の「八万四千體之内六万六千六百号」などと刻まれた延命地蔵や、自然石型碑面に「八万四千體・・」文言を持つ線彫地蔵を刻んだ供養塔などが置かれています。八万四千體もの石仏をどこに奉納したのか、しばし考え込んでしまいます。
更に奥に進むと見慣れた十九夜塔や庚申塔がお出迎えです。

気になるものを記しておくと寛延四年(1751)十九夜如意輪塔、寛文十二年(1672)三猿庚申塔、アーモンドヘッドの元文四年(1739)六臂ショケラ持青面金剛塔、元禄八年(1695)文字青面金剛塔と続きます。そしてお待ちかねの延宝七年(1679)十六夜念仏塔です。

「奉供養十六夜念佛二世安楽所」同行四十名です。此のブログでは古く8-8六軒コミュニケーションセンターで大きな十六夜塔を記した以外はみておりません。このあと中峠法岩院で元禄三年(1690)の延命地蔵十六夜塔を拝める予定です。久々の珍しい石仏に出会えました。その並びでは2基続けてアーモンドヘッドの寛延四年(1751)と元文二年(1737)の六臂ショケラ持青面金剛塔が並んでいます。
元文四年(1739)

寛延四年(1751)

元文二年(1737)
似たようなアーモンドヘッドが3基もあるのも非常に面白いですね。
東側塀際も百度石・相馬霊場巡拝碑・明治期の三界萬霊塔や石祠などが雑然と並んでいて過ぎた時代の民俗行事の証人のように思えてきます。

91-2日秀(ひびり)観音寺の石仏
地蔵院から80m西進するとT字路信号角に観音寺があります。寛文二年(1662)の創立で開基は中世の日秀禅正友治と考えられています。交差点の国道沿いに覆い屋があってその中に子安地蔵が祀られています。
首をかしげて裾には二体の童が左右に取り付いています。手前に赤いちゃんちゃんこを着た石造物はお猿さんでしょうか?日秀は将門伝説の地とかでこの石地蔵も成田に背をむけているという謂れもあるようですが本当でしょうか?
境内には慶応二年に作り足した立派な向背のある観音堂があります。
向背虹梁に見事な彫刻がみられます。観音堂を囲むようにして塀沿いに石仏が並んでいます。まず、向背に向き合うように7基の石仏です。
右から明治32年天満宮・元禄九年(1696)十九夜念仏如意輪観音、宝暦九年(1759)文字青面金剛尊、元文元年(1736)青面金剛大菩薩の刻字像、享保十一年(1726)弐十三夜勢至菩薩塔、正徳五年(1715)青面金剛塔、安永八年(1779)二十六夜愛染明王文字塔となっています。
宝暦九年塔の三猿


元文元年青面金剛大菩薩塔


享保十一年勢至菩薩

観音堂脇にも7基余の石仏が並んでいます。
元禄十一年(1698)三猿塔や享和三年(1803)十九夜塔、文久二年(1862)弐十三夜塔にも文字庚申塔などなどです。他にも紀念不明の待道大権現など賑やかですね。
91-3湖北中峠の一里塚跡
観音寺から200m西進するとコンビニ・ミニストップがあります。この湖北支所バス停の傍に一里塚の跡碑が立っています。塚として残っているのは数少ないようです。
88-1布佐の一里塚で述べたのと同じく昭和9年に建てられました。
安政四年(1857)文字庚申塔や明和六年(1769)大乗妙典塔なども祀られていますが、いかにも国道際で窮屈そうですね。

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2010/11/05

90北総石仏 我孫子の石仏 新木Ⅱ

なんとブログを見直していたら、第81回を重複使用しています。ショック!
90-1葺不合神社の石仏
前回の旧長福寺から凡そ500m国道356号を西進します。右手に明神鳥居のある葺不合神社参道入り口があります。名前からして珍しい神社です。祭神は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)といわれ、神武天皇の父神です。母が鵜の羽で葺いた産屋を作り終えないうちに生まれた為に此の名がついたと記紀神話で述べられています。Wikiで見ておきましょう。同じ祭神を祀る宮崎県の鵜戸神宮は有名ですね。
それにしても珍しい神を祀っていますが、元は厳島神社の境内地です。「湖北村誌」に元暦三年(1186)創建と伝える竹内無社格厳島神社と表示され、参道奥の石段を上ったところにある明和年間建立の弁天堂が今の拝殿となっています。明治39年の神社合祀令より、明治41年字宮前から移ってきた経緯にあります。おおよその経緯が平成15年神社拝殿改修記念碑に述べられているので写真を載せておきましょう。

さて石造物ですが、国道沿いに立つ昭和8年鳥居の左右に雑然と置かれています。左は天明四年(1784)文字青面金剛尊、享保十五年(1730)六臂合掌青面金剛塔、後ろに寛保元年(1741)大乗妙典六十六部日本回国塔ですが左側面を見ると三界萬霊塔も兼ねています。明治43年合祀紀念碑には葺不合神社だけでなく白山神社・三峰神社も厳島神社境内に合祀したと述べています。
参道右手は藪に埋もれ気味ですが、文政二年(1819)文字庚申塔、宝暦四年(1754)文字青面金剛塔などが元文四年(1739)二童子付ショケラ持青面金剛塔などが並んでいます。
参道を進むとどんどん窪地に降りていきます。左に文化七年(1810)庚申供養で寄進された手水石が置かれています。先に進むと高台に続く石段左に前述写真の拝殿改修記念碑が置かれています。伊勢太太神楽奉納碑が左右に立てられている石段を上れば、境内正面が弁天堂の額を掛けた拝殿となっています。左に回り本殿に向かいます。途中に寛政六年(1794)二十六夜愛染明王供養塔がひっそりと建っています。
更に進むと三峰神社が祀られていますが、不思議なことに明治39年蠶影山神社碑(こかげさん)も建っています。他にも石棒のお供えがある紀念不明の白山宮石祠もあって沢山の神様がこちらに合祀されたようです。
さて本殿前に着きました。拝殿から続く石段(登拝禁止)の降り口に安永五年(1776)庚申供養石灯籠が置かれています。
笠部が降ろされています。元文三年(1738)の竿部にも「奉造立石灯炉為庚申供養塔也」と鮮やかに残っています。本殿は明治32年建立、大工・木挽・彫刻師の名を残しています。木挽名をあげていることから地元樹木を伐って用材としたと思わせると市史に書かれています。沼南地区を回ったときに杣職人組合の石碑を見かけた事があるので、此の地区は明治期でも山林業が成立していたのでしょう。そしてその彫刻の面白さは息をのむ豪華なものです。
本殿右壁面はヤマタノオロチ退治の場面でしょうか。
裏壁面は天の岩戸神話と思われます。
左壁面はさて何でしょうね。
顔のつくりが人形劇のように見えるのがご愛嬌でしょうか。

90-2太子堂の十九夜塔
葺不合神社の鳥居から400mほど西進すると浄土真宗真栄寺の表示があります。真栄寺に向かう道を左折すると墓地に隣接して整地された場所に昭和十年改築された太子堂があります。
お堂の中に美豆良姿で柄香炉持ち16歳太子孝養像と称される彩色木造が祀られています。太子堂入り口には天明二年(1782)六地蔵や宝永三年(1706)地蔵塔が並んでいます。
荒地のような境内に石仏は無く、南側石段を上がったところから元禄五年(1692)三界萬霊塔、安永九年(1780)新四国霊場碑、文化八年(1811)馬頭観音塔が脈絡も無く散在しています。
敷地北西の隅にブロックで囲われた場所に無縁墓碑が放置状態です。
その中に寛政十一年(1799)十九夜講中刻まれた如意輪塔と文化五年(1808)銘の文字塔で如意輪観世音供養塔左側面に十九夜と刻まれた十九夜塔が置かれています。
他に荒れた碑面の文化二年(1805)六十六部回国塔なども紛れ込んでいます。寂しい感じで太子堂をあとにします。太子堂を出たところ藪の下に後ろ向きの石祠があります。宝永五年(1708)の道祖神ですが以前は南側道路が主要通路だったのでしょうか。

90-3太子堂前(真栄寺南側旧墓地)の釈迦如来
大師堂と真栄寺墓地の間を通る道路がT字路に交わる南東側は荒れた笹や潅木の露地となっています。こちらに宝永五年(1708)の六地蔵が並んでいます。旧墓地なのですが斜面に素晴らしい阿弥陀様が六地蔵に守られるように祀られています。
宝永五年(1708)頭上に幡・光背に円光・禅定印を結ぶ丈1.5mはあろうかという立派な石仏です。
「奉造立釈迦牟尼佛妙典六十六部納経」と刻んであるところから日本廻國塔として建立されたものでしょう。
90-4五の神の寶篋印塔
我孫子の社寺史跡分布図(C)に五の神で表示はありますが、普通ではたどり着けない場所となっています。雑木林の中に寶篋印塔と何基かの石仏石祠が祀られているばかりで社も無ければ参道も踏み跡だけという具合です。だけど石仏や塔は此の地区でも相当早い時期の寛永・元禄期のものです。一体なんだったのでしょうか?
五ノ神は大師堂の北東約400mの雑木林の中にあります。民家の脇道を入るとトンネル状の参道です。左手に注連縄を張った奥に元禄十五年(1702)十九夜如意輪塔が埋もれています。
参道を更に進むと注連縄を張った場所とその周辺に石造物が祀られています。
寛永六年(1629)寶篋印塔は此の場所での存在そのものが不可思議です。元禄十四年(1701)来迎印阿弥陀如来立像の立派さに驚きます。
碑面から「奉讀誦十五夜念佛廿三夜待男女以菩提也」と十五夜念仏・廿三夜待の両講が建立を果たしたものと分かります。
手前にある寛文八年(1668)阿弥陀如来像は「十五夜念仏供養・・」と刻まれています。さすが十五夜塔の流行地でありますね。注連縄の奥は天明三年(1783)湯殿山主尊出羽三山碑と昭和15年月山参拝碑となっています。他にも元禄九年(1696)大六天宮・元禄十六年(1703)八幡宮・文化年間稲荷大明神石祠などがあってその古さから一種のワンダーランド状態と思えます。不思議!
今回はこれまでとしましょう。
90-5馬捨場石塔群(20101121追記)
葺不合神社へ参る東からの道は国道365号から北へ曲がります。そして更に西方向へ左折しますが、左折せずに70mほど直進すると砂地の畑沿いに馬頭観音塔が10基ほど並んでいます。(地番は新木1571先)
昔、この場所から100mほど東に馬捨場があったそうです。石仏は文化六年(1809)馬頭観音像塔~昭和30年馬頭観世音文字塔まで永きに亘っています。
土ぼこりが厚くつもってもけなげに供養をしているように見えます。犬猫ペットは全盛ですが、馬の供養に詣でる人は誰もいないのでしょうか?

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