2011/03/31

103 北総石仏 我孫子の石仏 柴崎

JR天王台駅の北西に位置し上辺を水戸街道国道6号線に抑えられた地区が柴崎です。柴崎自治会館のあるところが柴崎神社です。
103-1柴崎神社
草創は不明ですが、境内から永仁六年(1298)銘の板碑断片が発見されていて、市内でも最古の年号板碑であるところから祭祀の旧さが偲ばれます。又、当社と隣接円福寺の両境内は戦国期の城郭跡といわれ、当社の裏手通りは空堀の名残をとどめていると史跡ガイドに載っています。

現社殿は昭和63年の新築で神明造りの本殿・相の間・拝殿が連なる立派なものです。切妻平入で妻に棟持柱・棟に千木・勝男木をおいた 豪華なのも特徴です。
鳥居の左側表通り沿いに2基の庚申塔です。

左が文化六年(1809)青面金剛文字塔で右が文政九年(1826)庚申です。は「チョウ・つか」で塚は俗字であると角川漢和中辞典に載っています。石段を上れば左に覆い屋があります。
享保四年(1719)の六臂合掌青面金剛像と不明石碑が祀られています。(我孫子の庚申塔所在地調べでは伝庚申塔の表記っです)
その外に1995年金久保から移設された正徳五年(1715)六臂髑髏持青面金剛塔も立っています。他にも安永八年(1779)・文久元年(1861)道祖神もおられます。手水舎の嘉永五年(1852)銘亀趺と向かい合って亀趺と言っていいのか石亀4匹も並んでいたりします。

境内には本殿左に八幡社が祀られ、その手前に元禄十六年(1703)水天宮石祠・八坂・香取社などが長屋形式で建っています。社殿右は覆い屋のついた三峰社です。境内を巡れば文久元年(1861)月讀尊碑・文政十一年(18289秋葉大神碑などが散在していて、石仏探索の楽しみ?も味わえます。色々な石碑もありますが、良く紹介されるのは黒髪碑です。11名の女性名と2名の願主で明治39年2月の建立です。
史跡ガイドの解説に「夫の武運長久を祈願し黒髪を手向けたものであろう」とかかれていますが、前年9月にはポーツマス条約で終戦を迎えているのでなにか合わない気がします。ガイドでは未亡人再婚不可能説論争に言及があるので、個人的解釈では鎮魂と未亡人の未婚決意を表したものと理解しておきましょう?憶測は広がりますがそっとしておきましょう。
103-2円福寺の帝釈天庚申塔
柴崎神社の隣が真言宗円福寺です。過去帳に元和二年(1616)の書入があるので江戸初期の草創と考えられるとか。
昭和62年に新築の本堂は宝形造向拝付で、境内左手には文久三年(1863)建立明治37年修理の切妻正面唐破風の大師堂と鯖大師堂・不動明王堂が建っています。石仏は不動明王堂の裏手に墓碑に交じって並んでいます。
写真後列の5基がお目当ての石仏となります。左から享保三年(1718)髑髏環持青面金剛塔、元禄十五年(1702)天蓋付十九夜如意輪観音塔、享保十四年(1729)百堂(念仏)塔、元禄六年(1693)十九夜如意輪観音塔、元禄八年(1695)庚申(帝釈天)塔となっています。
このうち珍しいのは帝釈天の文言「捧持帝釈天王・・」を彫り込んだ元禄八年庚申塔で、日蓮宗系庚申塔の分類にはいり我孫子では唯1基のみ。今、日蓮宗寺院は柴崎にはありません。
それと百堂(念仏)塔も特色ある石仏です。我孫子市史では百観音の巡拝塔として記載されていますが、別に百堂念仏という信仰形態から造立する百堂(念仏)塔があるのでそちらを採りたいですね。房総石造物文化財研究会刊行の続房総の石仏百選で、「百堂念仏は村人達が講を組み近隣のお堂百箇所を巡拝し自身の幸福と先祖の成仏を願って念仏を唱え歩いた修行・・三年間の・・達成のあとに百堂念仏塔を造立・・茨城埼玉千葉三県を中心に180余基・・江戸中期まで盛行した利根川水系独特の念仏塔である」と石田年子氏が解説されています。

103-3東源寺の石仏
円福寺北沿いの道を西に向かえば隣接するのが天文九年(1540)開基といわれる曹洞宗東源寺です。山門の参道突き当たりに、赤い涎掛けをした六地蔵が迎えてくれます。右折すると県指定天然記念物の榧(かや)の大木が眼に入ります。相馬霊場開設の光音禅師お手植ですから約230年もの歳月を経ています。
右が本堂で左が大師堂
 参道を進むと右手に現代の慈母観音銅像が迎えてくれます。その傍らに石仏が10基ばかり整列して祀られています。向かって右から寛文十年(1670)二臂如意輪観音十九夜塔、享保七年(1722)青面金剛塔、延宝二年(1674)青面金剛塔、享保十七年(1732)庚申供養塔、天保十三年(1842)文字庚申塔、文久四年(1864)普門品十万巻供養塔、明治24年法華経千部書写須弥壇埋納碑と続きます。気になるものを載せておきましょう。
寛文十年塔と旧く素朴、頭部刻字不明
延宝二年塔で六臂全て体外展開は初見
享保十七年塔・南無妙法蓮華経 庚申講供養
更に、奥に行くと三基の文字塔石仏が並んでいます。
右から元文三年(1738)二十三夜勢至観世音塔 、延享元年(1744)文字馬頭観世音塔、文化六年(1809)文字虚空蔵菩薩塔となっています。真中の文字馬頭塔は「右高之山道 左成田道」と道標も兼ねています。
参道左側にも新しそうな地蔵塔と宝暦十四年(1764)馬頭観音塔がおられます。本堂横から墓地に入りと歴代住職の墓域中に智拳印の金剛界大日如来塔が祀られています。
延宝五年(1677)創立「奉造立為百堂念仏供養大日如来像」塔ですね。先ほどの円福寺でも見ましたがこちらは堂々の百堂念仏塔です。
あと、文政六年(1823)白山妙理大薩埵(サッタ)という石仏もおられましたが、勢至像か聖観音像か不明ながら白山信仰のものがなぜここにあるのか不思議な感じでした。
103-4石尊宮
東源寺前を道成に北上し国道6号線水戸街道の高架をくぐる手前に石尊宮があります。
急な石段を上ったところが、小山の上の小さなお堂といった風情の石尊宮となります。石段の途中に天明二年(1782)不動明王が素朴な姿でおられました。
我孫子の石造物所在地リストでは「疣取り信仰」の注記ありました。昔は農村の生活に密着した石仏様だったようです。

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2011/03/24

102 北総石仏 我孫子の石仏 青山・柴崎

東北関東大震災の犠牲者のご冥福を祈り、被災された方々にお見舞い申上げます。自分自身では、今現在このようなブログを続けていけることに感謝しながら生活しています。
さて今回の青山地区は、国道6号線水戸街道と常磐線に挟まれた三日月地形の上弦に位置します。
102-1青山の無量院の日記念仏塔
国道6号線青山台入口交差点の西500mに位置する無量院は、坂道を上り詰めた高台にあります。草創は不明ですが中世に堂庵が営まれた模様で、安永四年(1775)相馬霊場創設時には第65番伊予三角寺写しとされた来歴があります。山門はありませんが、入口に4基の地蔵と表面を剥離された石仏が並んでいます。
右端の地蔵坐像は台石に「三界萬霊」の文字が彫付けられている天明元年(1781)の造立です。左隣の背の高い宝永五年(1708)延命地蔵は背中に「時念仏日記念仏供養」の立派な文言を背負っています。時念仏に関しては日本石仏事典に「トキに斎の字をあて仏教では食事のことをさすから食事を伴った念仏講とも解せされる・・・茨城県利根町徳満寺に元禄14 年(1701)[時念仏始寛永元年・・・]と刻んだ時念仏塔があり・・・種子像容全てが湯殿山本地の大日如来であることから時念仏の源流が湯殿山に求めら れる」と記載があります。
一つおいた小ぶりの地蔵も宝永七年(1710)の日記念仏塔となっています。碑面右に「奉造立御日記供養為・・」の文字が読み取れます。日記念仏に関しては続房総の石仏百選で「・・女人だけを対象にした念仏で・・功徳を願って造立したのが日記念仏塔で・・千葉県内45基が確認されて・・市川市下矢田の寛文六年(1666)聖観音主尊の造立が県内最古で・・印西市永治地区の日記念仏唱本に正月十七日のオ念仏から師走十日のオ念仏までの記載・・」と町田氏が解説されています。亡くなられた榎本正三氏の著作に詳細記録があります。
さて、この地蔵さんの裏側に立派な如意輪塔など4基の石仏が並んでいます。

向かって左から寛文十年(1670)・天和三年(1683)の二臂如意輪塔です。
次に元禄十年(1697)大日如来像、元禄六年(1693)二臂如意輪観音像が並んでいます。如意輪観音塔には二世安楽の文言が共通しており多分十九夜塔ではないかと推察されます。台石に各々20名ほどの女性の名が刻まれています。迂闊にも最近気づいたのですが、女性名に全て「お」がついているのは女性呼称の接頭詞だということなんですね。だから人別帳には「とら」「まつ」と載っていて、日常会話に「おとら」さん、「おまつ」さんと呼んでいたんでしょう。??
さて参道左に大師堂がありその奥に新しい覆い屋が三室あります。向かって左から天保十二年(1841)弘法大師と地蔵の頭部がある区画、隣が年不明「奉追善阿弥陀如来一躰」の文言を刻んだ来迎印阿弥陀像、そして隣に正和元「?」(1312)阿弥陀三尊種子の武蔵板碑が置かれています。我孫子の出土板碑約80基のうち年代の分かる22基の中でこの板碑が最古のものと我孫子市史に書かれています。ちょっと見難いですが、大切に保管されて皆が見られるのは良いことです。他にも参道右手すぐに天保六年(1835)清瀧大権現石祠があり、大師堂裏に新しい馬頭観音塔なども見られます。
参道を挟んで大師堂と向かい合うのは、相馬霊場創設者・観覚光音の石堀御影図像を納めたお堂です。巻子のような棒に六字名号を墨書して奉納しています。
本堂手前左には現代風の角塔婆というのでしょうか柱状の石柱が建っています。刻まれているのは五輪塔のキャカラバアなので五輪塔かもしれません。右面の種子を見ると梵字右肩にクルッと筆が入っているので修行点と分かります。従ってこの面は南方修行門でキャー・カー・ラー・バー・アーと発音されますが、実際は北東方向を向いています??
下に刻まれた偈文は「六大無碍にして常に瑜伽なり。四種曼荼おのおの離れず。三大加持すれば速やかにあらわる。重々帝網なるを即身と名づく」と続き、空海の師・恵果の偈といわれています。(以上 石仏偈頌辞典より引用)
102-2八幡神社
無量院の東隣が八幡神社です。開発であちこちから移してきたのでしょうか、参道ぞいに石仏が点在しています。
我孫子の石造物所在地リストには24基の石仏がリストアップされています。
いくつかを紹介すると、参道左側・万治二年(1659)板碑型三猿庚申塔は高野山八幡神社の阿弥陀種子庚申塔と並び市内最古です。
参道右側に明和八年(1771)子育地蔵が赤子を抱いています。
参道左、石鳥居そばに元禄七年(1694)得大勢至観音二十三夜塔があります。等々、無量院とあわせて思わぬところに石仏ワールドが広がっていて楽しめるところです。
102-3 下ヶ戸の西音寺

我孫子の川村学園敷地の南方に位置しています。下ヶ戸青年館のそばで広い駐車場がある真言宗のお寺です。コンクリートで出来た本堂は、村有の灌漑池を日本電気の工場用地の一部として売却したお金で造ったという建設費の出所を明言していて興味深いものです。こちらには相馬霊場第七十四番写し石柱や大師堂・昭和3年善光寺阿弥陀供養碑が目に付く程度ですが。
石仏ロードは本堂右脇道沿いに続いています。西音寺石塔群として市史金石資料Ⅱに載っています。ブロックで区切られた区画に右端から庚申塔の行進?が始まります。天保四年(1833)・天保十二年(1841)文字庚申塔から始まり百番塔(出羽三山含)馬頭観音など15基を数えます。
写真は普門品講中が造立した文化二年(1805)聖観音像です。
102‐4下ヶ戸の八幡神社の庚申塔
西音寺の右脇道をすすめば八幡神社です。

明治の神社明細帳では天神社だそうで、合祀令で移ってきたそうですね。朱塗り?の木造両部鳥居の先に参道が続いています。何の変哲もないようですが、奥に進み拝殿近くから庚申塔や石仏のオンパレードとなってきます。文化八年(1811)山神宮石祠の隣に立派な青面金剛塔が2基並んでいます。
元文五年邪鬼はグー印

享保四年二童子二夜叉付



















享保四年(1719)二童子二夜叉付青面金剛塔(右手は髑髏持ち?)と元文五年(1740)の二童子ショケラ持青面金剛塔です。彫りもよく朱色が残る状態が良いものです。その後も下の写真のように庚申塔の行列です。
又、宝暦五年(1755)の庚申燈篭があって「奉納青面金剛」の文字が嬉しいですね。
参道脇で手水舎が新造されていました。脇にある庚申講の奉納した寛政七年(1795)手水石はそのままで、新しい手水舎に自然石手水石が収まっているのは石仏ファンとしてはちょっと残念。
102-5 西音寺墓地の石仏
西音寺の道路南側に墓地があります。通路突き当たりに正徳二年(1712)丸彫延命地蔵がおられます。変わったものを見つけました。
通路左手で往時の下ヶ戸の様子を現したような石碑が建っています。川魚が跳ね、鶏がトキの声をあげるそんな環境だったのでしょう。墓石の蔭に安永五年(1776)の十九夜塔も見つけました。

そして、破損してはいますが二体の巡錫比丘立像・坐像を刻んだ文政十三年(1830)「病難除大師像」塔を発見。金石資料にも確かに載っていたものです。「いやー、一応は探してみるもんですねえ」



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2011/03/07

101北総石仏 我孫子の石仏 岡発戸(新田)

前回の都部村新田・水神社の脇を通る道を西に行けば、岡発戸(おかぼっと)新田の集落を通り抜けます。道はバイパスに突き当たりますが50m前方(西方)にある旧道入口を入り、滝前青年館を目指します。
101-1滝前青年館脇の十九夜塔
 青年館の東側塀沿いに3基の石仏が並んでいます。両脇を墓碑に挟まれた真中が安永八年(1779)細面の十九夜塔です。
素朴な感じがいいですね。安永の頃は江戸で田沼意次が全盛を振るった時代ですが、我孫子の農村の生活は一体どうだったのでしょうか?
101-2滝前不動尊
青年館から200m西行すると奥に石段がある滝不動にでます。道路沿いに大正3年新四国大師道の指差し道標が見えます。その奥にも安永五年(1776)新四国三十六番札所表示が石段脇に立っています。
写真の右のブロック塀は濡れていますがその下は水溜りとなっていて、柄杓がおかれています。湧き水が溜まるのでしょうか。脇に見える石造物が安政七年(1860)倶利伽羅不動です。
2009年1月10日の18E-2金乗院で寛文六年(1666)の倶利伽羅不動の写真を載せているので、江戸前と下総地場産を見比べるのも面白いでしょう。因みに金乗院の石仏は日本石仏事典52頁に収載されています。
石段を上がると 文化十三年(1816)建立・昭和51年萱葺替屋根の入母屋造りの不動堂が正面に見えます。写真に見える藤棚は、我孫子の地に住んだ志賀直哉が小説「矢島柳堂」で”不動の瀧前にある藤を見てきてくれ”と主人公に語らせた藤棚と思われます。
左脇には切妻造り大師堂があって中に文化四年銘の大師像が祀られています。不動堂の石垣から鉄管が出ていて湧き出た清水が溜まっています。
そのところに寛政十一年(1799)不動明王が立っていますが、像容が水垢離姿に見えるのは筆者の先入観でしょうかねえ。
101-3岡発戸新田の八幡神社
瀧前不動尊から南側バイパスにでて手賀沼沿いに400m西進すると、大正13年の石造神明鳥居をもった八幡神社が沼べりに建っています。砂地のがらんとした境内です。
鳥居を抜けた参道両側に石仏が並べられているのですが、写真では柱の影で見えません。明治の「神社明細長」に境内神社として、道祖神社・水神社・天神社・庚申塔・二十三夜塔・待道社が記されていると、我孫子市史に述べられています。

一番古いのは明和七年((1770)六臂合掌青面金剛塔ですが、白苔に浸食されて像容が荒れています。
天保八年(1837)待道大権現社は、文久元年(1861)の玉垣に囲まれているのもこの地区で良く見られる当時の流行なのでしょうか。
101-4岡発戸(おかぼっと)八幡神社の待道講本社
岡発戸新田の北には我孫子カントリークラブが広大な敷地で広がっています。その北にJR成田線をまたいで国道365号線の北地区を一部含めた区域が岡発戸地区となります。国道365線の湖北台団地入口交差点を300m東進して筋違いの四つ角を北上すると突き当りが八幡神社です。道路は八幡神社前で左折し無住の白泉寺前を通っていきます。

この八幡神社には、我孫子地区を中心に近世後期に発生伝播した待道講の本社が祀られています。写真左に小さく見える小ぶりの石鳥居が待道大権現の本社です。もとは別に社地があったようですが、隣接する白泉寺が別当寺でもありここ八幡神社に安置されています。
待道講は北総地区の女人講として利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた極限られた地域に営まれた信仰です。以下「我孫子市史民俗文化財編」第4章第2節の「待道講と血盆経信仰」から抜粋引用して、待道講の概要を記しておきます。

『これは観音講・子安講・十九夜講などと同じく毎月17日に集会する子育て・安産祈願のための講で・・・儀式は待道大権現の軸を掲げ念仏を唱えた後会食をする・・講員は子供を産む年齢に達した女性・・名称は異なるが・・安産・子育てを祈願する講で・・名称と儀礼対象だけが縷々変わった・・この神社は安永四年(1775)以前に祀られたことが知られその分社の分布は利根川および江戸川の沿岸にわたり・・これを中心に各地に広がっていったことが年代別分布図から分かる』
『白泉寺の本寺正泉寺は・・血盆経の信仰流布させた関東の中心で・・女人成仏のため血盆経を授け・・・境内に十七夜講が古くからあり・・これが待道講に継承されるらしいのである。・・マツドウとは何か・・明確にするのは困難で・・・(著者)私見では松童の当て字もしくは待童・・あるいは講員がいうようにオマチドウサマという当て字で子供の出生を待望しての呼称であるとも考えられる』

写真の手水は寛政九年(1797)・鳥居は天保十一年(1840)・小ぶりの燈篭は文政十二年(1829)玉垣は安永四年(1775)となっています。燈篭の台石には寄進の村名である久寺家・都部・新木・布佐・取手村等々広範囲の記載があり、待道講の信仰の広がりが偲ばれます。

八幡社の参道右手は写真のとおり庚申塔18基のオンパレードです。一番古いのが写真右から2基目の元禄五年(1692)三猿庚申塔です。
その左隣は享保十八年(1733)六臂ショケラ持青面金剛塔ですが「青面金剛菩薩」と彫られていて私には初見ですね。

享保十八年「青面金剛菩薩」庚申塔
その左も享保戊戌(三年)の六臂合掌型青面金剛塔となっています。他は文字庚申塔ばかりです。
先ほどの庚申塔の集合写真で左端は宝暦六年(1756)「青面金剛」塔ですが、台石には一猿一鶏しか見当たらず変わっています。
宝暦六年 一猿一鶏庚申塔台座
他には天保三年(1832)道祖神・文政九年(1826)廿三夜供養塔・明治九年改刻・疱瘡神・大杉殿石祠などがあり楽しめます。
入口脇の雑木の陰に「火の用心」塔なるものを見つけました。『我内村ヨノ中一同片時モワスレスニ 雨天成共火之用心 タトヒ男女ノ子供ニイタルマテ ・・・一日ハ必相休ムヘカラス・・・』等と記され明治18年の紀念銘です。火災の怖さを教えていますが 雨天成共の文言にちょっとブラックユーモアを感じてしまいます。
 

101-5白泉寺前墓地の石仏
八幡神社を東に行くとブロックで囲まれたところに石仏が12基ばかり置かれています。
正面舟形向背は種子カを頂いた天華地蔵で、元禄二年(1689)の建立です。後列左端の目立たない如意輪観音は明和元年(1764)十七夜塔となっています。
 
後列の如意輪観音像ですが左は延宝五年(1677)・右は元禄六年(1693)の十九夜塔です。背の高い丸彫り地蔵は、正徳元年(1711)大乗妙典讀誦供養で建立されたと背面に記載あるようですが(見そびれました)。他は墓碑ですが前列右から2番目は馬口印を結んだ馬頭観音と思われます。
101-6 八幡の井戸
八幡神社と白泉寺前を西進し下り坂の途中、竹やぶの中に八幡の井戸があります。「湖北七ツ井戸」の一つで、元旦に神棚に供える神水として、又生活用水として貴重な井戸であったと「我孫子市史跡ガイドブックに載っています。弁天の井戸・香取の井戸・将門の井戸・桜井戸・元日の井戸・井戸坂の井戸と共に「湖北の七ツ井戸」と呼ばれていましたが、今に残るのはこの井戸だけだそうです。
写真の井戸の蔭に昭和四年御神水井改修記念碑がおかれています。

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