2011/03/07

101北総石仏 我孫子の石仏 岡発戸(新田)

前回の都部村新田・水神社の脇を通る道を西に行けば、岡発戸(おかぼっと)新田の集落を通り抜けます。道はバイパスに突き当たりますが50m前方(西方)にある旧道入口を入り、滝前青年館を目指します。
101-1滝前青年館脇の十九夜塔
 青年館の東側塀沿いに3基の石仏が並んでいます。両脇を墓碑に挟まれた真中が安永八年(1779)細面の十九夜塔です。
素朴な感じがいいですね。安永の頃は江戸で田沼意次が全盛を振るった時代ですが、我孫子の農村の生活は一体どうだったのでしょうか?
101-2滝前不動尊
青年館から200m西行すると奥に石段がある滝不動にでます。道路沿いに大正3年新四国大師道の指差し道標が見えます。その奥にも安永五年(1776)新四国三十六番札所表示が石段脇に立っています。
写真の右のブロック塀は濡れていますがその下は水溜りとなっていて、柄杓がおかれています。湧き水が溜まるのでしょうか。脇に見える石造物が安政七年(1860)倶利伽羅不動です。
2009年1月10日の18E-2金乗院で寛文六年(1666)の倶利伽羅不動の写真を載せているので、江戸前と下総地場産を見比べるのも面白いでしょう。因みに金乗院の石仏は日本石仏事典52頁に収載されています。
石段を上がると 文化十三年(1816)建立・昭和51年萱葺替屋根の入母屋造りの不動堂が正面に見えます。写真に見える藤棚は、我孫子の地に住んだ志賀直哉が小説「矢島柳堂」で”不動の瀧前にある藤を見てきてくれ”と主人公に語らせた藤棚と思われます。
左脇には切妻造り大師堂があって中に文化四年銘の大師像が祀られています。不動堂の石垣から鉄管が出ていて湧き出た清水が溜まっています。
そのところに寛政十一年(1799)不動明王が立っていますが、像容が水垢離姿に見えるのは筆者の先入観でしょうかねえ。
101-3岡発戸新田の八幡神社
瀧前不動尊から南側バイパスにでて手賀沼沿いに400m西進すると、大正13年の石造神明鳥居をもった八幡神社が沼べりに建っています。砂地のがらんとした境内です。
鳥居を抜けた参道両側に石仏が並べられているのですが、写真では柱の影で見えません。明治の「神社明細長」に境内神社として、道祖神社・水神社・天神社・庚申塔・二十三夜塔・待道社が記されていると、我孫子市史に述べられています。

一番古いのは明和七年((1770)六臂合掌青面金剛塔ですが、白苔に浸食されて像容が荒れています。
天保八年(1837)待道大権現社は、文久元年(1861)の玉垣に囲まれているのもこの地区で良く見られる当時の流行なのでしょうか。
101-4岡発戸(おかぼっと)八幡神社の待道講本社
岡発戸新田の北には我孫子カントリークラブが広大な敷地で広がっています。その北にJR成田線をまたいで国道365号線の北地区を一部含めた区域が岡発戸地区となります。国道365線の湖北台団地入口交差点を300m東進して筋違いの四つ角を北上すると突き当りが八幡神社です。道路は八幡神社前で左折し無住の白泉寺前を通っていきます。

この八幡神社には、我孫子地区を中心に近世後期に発生伝播した待道講の本社が祀られています。写真左に小さく見える小ぶりの石鳥居が待道大権現の本社です。もとは別に社地があったようですが、隣接する白泉寺が別当寺でもありここ八幡神社に安置されています。
待道講は北総地区の女人講として利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた極限られた地域に営まれた信仰です。以下「我孫子市史民俗文化財編」第4章第2節の「待道講と血盆経信仰」から抜粋引用して、待道講の概要を記しておきます。

『これは観音講・子安講・十九夜講などと同じく毎月17日に集会する子育て・安産祈願のための講で・・・儀式は待道大権現の軸を掲げ念仏を唱えた後会食をする・・講員は子供を産む年齢に達した女性・・名称は異なるが・・安産・子育てを祈願する講で・・名称と儀礼対象だけが縷々変わった・・この神社は安永四年(1775)以前に祀られたことが知られその分社の分布は利根川および江戸川の沿岸にわたり・・これを中心に各地に広がっていったことが年代別分布図から分かる』
『白泉寺の本寺正泉寺は・・血盆経の信仰流布させた関東の中心で・・女人成仏のため血盆経を授け・・・境内に十七夜講が古くからあり・・これが待道講に継承されるらしいのである。・・マツドウとは何か・・明確にするのは困難で・・・(著者)私見では松童の当て字もしくは待童・・あるいは講員がいうようにオマチドウサマという当て字で子供の出生を待望しての呼称であるとも考えられる』

写真の手水は寛政九年(1797)・鳥居は天保十一年(1840)・小ぶりの燈篭は文政十二年(1829)玉垣は安永四年(1775)となっています。燈篭の台石には寄進の村名である久寺家・都部・新木・布佐・取手村等々広範囲の記載があり、待道講の信仰の広がりが偲ばれます。

八幡社の参道右手は写真のとおり庚申塔18基のオンパレードです。一番古いのが写真右から2基目の元禄五年(1692)三猿庚申塔です。
その左隣は享保十八年(1733)六臂ショケラ持青面金剛塔ですが「青面金剛菩薩」と彫られていて私には初見ですね。

享保十八年「青面金剛菩薩」庚申塔
その左も享保戊戌(三年)の六臂合掌型青面金剛塔となっています。他は文字庚申塔ばかりです。
先ほどの庚申塔の集合写真で左端は宝暦六年(1756)「青面金剛」塔ですが、台石には一猿一鶏しか見当たらず変わっています。
宝暦六年 一猿一鶏庚申塔台座
他には天保三年(1832)道祖神・文政九年(1826)廿三夜供養塔・明治九年改刻・疱瘡神・大杉殿石祠などがあり楽しめます。
入口脇の雑木の陰に「火の用心」塔なるものを見つけました。『我内村ヨノ中一同片時モワスレスニ 雨天成共火之用心 タトヒ男女ノ子供ニイタルマテ ・・・一日ハ必相休ムヘカラス・・・』等と記され明治18年の紀念銘です。火災の怖さを教えていますが 雨天成共の文言にちょっとブラックユーモアを感じてしまいます。
 

101-5白泉寺前墓地の石仏
八幡神社を東に行くとブロックで囲まれたところに石仏が12基ばかり置かれています。
正面舟形向背は種子カを頂いた天華地蔵で、元禄二年(1689)の建立です。後列左端の目立たない如意輪観音は明和元年(1764)十七夜塔となっています。
 
後列の如意輪観音像ですが左は延宝五年(1677)・右は元禄六年(1693)の十九夜塔です。背の高い丸彫り地蔵は、正徳元年(1711)大乗妙典讀誦供養で建立されたと背面に記載あるようですが(見そびれました)。他は墓碑ですが前列右から2番目は馬口印を結んだ馬頭観音と思われます。
101-6 八幡の井戸
八幡神社と白泉寺前を西進し下り坂の途中、竹やぶの中に八幡の井戸があります。「湖北七ツ井戸」の一つで、元旦に神棚に供える神水として、又生活用水として貴重な井戸であったと「我孫子市史跡ガイドブックに載っています。弁天の井戸・香取の井戸・将門の井戸・桜井戸・元日の井戸・井戸坂の井戸と共に「湖北の七ツ井戸」と呼ばれていましたが、今に残るのはこの井戸だけだそうです。
写真の井戸の蔭に昭和四年御神水井改修記念碑がおかれています。

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1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

ありがとうございます。
別な場所でも、見つけました。
意味がわかり、腑に落ちました。
感謝!!