2011/10/31

123 北総石仏 柏の石仏 北柏・あけぼの

国道16号線と国道7号(水戸街道)が交わる交差点は呼塚(よばつか)と言われています。交差点の東側にある大堀川には、江戸時代呼塚河岸と呼ばれた船着場がありこの辺りは舟運で栄えた地区でありました。もともとこのあたりの土地は江戸時代、根戸新田・呼塚新田・松ヶ崎新田・堀之内新田の字のとおり新田開発された土地でした。しかしJR常磐線・国道16号・国道6号・大堀川・手賀沼などの開発が進み、整理された区画が入り組んでしまい今では往時の面影は覗えません。
123-1 あけぼのの赤城神社
字は篠籠田とされるあけぼの地区は呼塚交差点のすぐ西側にあり、国道16号・7号線に区切られた地域です。
平成元年の由来碑があるのでその頃の建築でしょう
起伏のある高台に鎮座する赤城神社は天保十年(1839)の棟札のある宮社だったようですが、国道6号の開通で現在のように整備されたました。参道左に石塔を集めた1画があります。
左が大きな平成元年弁財天、隣が天保六年弁財天、中央は不明石祠です
  正面の左石段上に平成元年と天保六年(1835)の弁財天石碑が並んでいます。写真右手の石碑は4基あります。
左端不明石祠・山神宮・雷神祠・金比羅神社
 左2基目から文政八年(1825)山神宮、嘉永六年(1853)雷神祠、明治15年金比羅神社となっています。整備された境内でみると、石塔が表す信仰が本当にあったのかなあと不思議に思ってしまいます。
123-2 北柏・神照寺の石仏
X字状に交わる呼塚交差点を西に抜け、大堀川を渡って常磐線北柏駅の南口へ向かいます。県道268号線北柏駅入り口交差点の近くに神照寺があります。

左門扉のそばに2基の石仏
民家とマンションにかもまれたブロック塀内の無住のお寺です。入り口左に2基の石仏が祀られています。
左:十九夜塔、右:護讃地蔵(地持地蔵)
左が元禄十六年(1703)十九夜如意輪観音、右は念珠持ちの享保七年(1722)護讃地蔵と思われます。六地蔵でよく登場しますが出典に諸説あり持物・印相で呼び方は様々です。
又、 入り口右にはお大師さんが祀られた小さなお堂と屋根の付いた六地蔵が並んでいます。ガイドでは寛保元年(1741)の六地蔵となっています。正面のお堂を右に進むと墓地となっています。

正徳五年延命地蔵
墓域中に正徳五年(1715)延命地蔵が丸彫りの不明石仏とともにたっています。時節天候にもよりますが、明るい空の下で町なかに不思議な静寂がある空間でした。
123-3 北柏の水神宮
神照寺の一本南の区画に水神宮があります。区画整理された境内(といえるかどうか)は草原で中に1本の赤い木の鳥居が立っています。
お堂の中に昭和59年水神宮石祠があるようです
その先にガラス窓を正面にした小さなお堂があります。殺風景なくらいの風景です。その左、隣地フェンス沿いに9基の石塔が並んでいます。
左3基馬頭観音塔・中央3基庚申塔・二十三夜塔・雷神塔
10基のうち右端と右から3番目は寛政五年(1793)の石灯籠です。間の小さな石塔は年不明雷神石祠ですね。右から4番目は文政四年(1821)二十三夜供養文字塔です。中央の大きな3基が庚申塔になっています。右から安永六年(1777)青面金剛文字塔、中央が正徳三年(1713)「奉造立庚申供養講結衆」を刻む庚申塔です。その左は年不明文字青面金剛塔となっています。
3基の庚申塔の台石は別石でしょう
 上の写真中央の庚申塔は下部に三猿を刻んでいます。
聞かザルの冠?と「見ザル」のシンボル?
左端の「聞かザル」は頭部に冠をつけているように見えますし、真ん中の「見ザル」は男性シンボルを付けているように見えますがどうでしょうか。碑面が荒れているので希望的観測かも。
10基の石塔中右端3基は小ぶりの馬頭観音塔が並んでいます。右端が明治15年・天保九年(1838)・明治20年のいずれも文字馬頭観音塔です。


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2011/10/23

122 北総石仏 柏の石仏 豊四季

明治になって下総牧々の開墾が奨励されました。開発会社が設立されその下で明治二年十月から移住が開始され、最初は中野牧からはじまりその開拓地は字名「初富」と称しました。以後移住した牧々は数字を持つ字名を当てられ、「二和」「三咲」から「十余三」まで十三の集落が成立しました。新京成電鉄の駅名に多く点在し、東葛地区の住民ならご存知の方も多いでしょう。
柏市では今回の豊四季(上野牧)と十余二(高田台牧)が、三井八郎衛門の引請地で開墾が開始されました。豊四季は明治二年11・12月に122戸478人が移住しました。開墾は困窮を極め明治5年までに約半数五十数戸が脱落しました。明治5年5月には窮民を独立農夫にすることをひきかえに開発会社の開墾事業に終止符がうたれました。(テキスト「柏のむかし」から参照引用)
興味ある方は以下の画像を拡大して、開拓百年記念碑の切々たる文面でその困難な様子をご理解ください。
豊四季稲荷神社境内・昭和48年碑
122-1 一本松稲荷神社
豊四季は前回・前々回の篠籠田・旧柏地区の南にあたる地区ですが、国道6号線や東武野田線で微妙に分断されて分かりにくくなっています。東武野田線豊四季駅の南口交差点を西進800mで、西松や流山店の前に一本松稲荷があります。シンプルな鳥居の先、左側には豊四季公民館が建っています。その奥に簡素な社殿の一本松稲荷神社がおわします。
写真左に見えるのが昭和55年に植樹された三代目一本松なのだそうです。
古くからの石仏は見当たりませんが、当社は明治34年道灌坂に建立された御嶽神社を昭和8年に合祀しています。その石造物がめぼしい石仏ということになります。
御嶽神社碑は、右に八海山左に三笠山と刻字
周囲に五基の石碑が建っています。左から 摩利支天神社、御嶽講によく見かける普寛行者碑、香取神社、清瀧弁財天、金剛童子となっています。

そしてこの磐壇の手前には、種字カンマーンも鮮やかでスマートな形の不動明王石塔が建っています。お約束の制多迦童子・矜羯羅童子も刻字されていますね。
122-2 豊四季稲荷神社
一本松稲荷を700mほど南下すると稲荷神社前交差点です。角地の高台に稲荷神社があります。
昭和55年の石鳥居の奥に昭和60年狛犬・平成12年石灯籠が並んでいます。左の灯篭奥に神使のお稲荷さんが祀られています。狛犬の手前に明治34年山神宮石塔が立っています。
丸型自然石で山神宮は初見です
台石に杣連世話人と刻まれています。今では住宅地となったこの地も、明治後期では杣仕事をする人がまだ17名もいるような雑木林であった様子が偲ばれます。
石仏はもうないのですが興味深いのは、大正3年公爵岩倉具視報恩碑 と昭和48年豊四季開拓百年記念碑です。冒頭に載せた碑はこの神社の境内右手前に高々と建立されています。碑文をご覧頂くと、豊四季に続いて五香六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三との記載が見られますよ。
開拓地は開墾会社を引き受けた三井から、その後大隈重信・岩倉具視・青木周蔵らに譲渡されました。岩倉碑はこの地の大地主であった岩倉公の記念碑のようなものと理解されます。
122-3 豊受稲荷(ゆたかいなり)
正一位 豊受稲荷本宮の赤いのぼりが旧水戸街道の県道261号線に立っています。細い路地の奥が参道をかねています。壁際の赤い幟が所狭しと並ぶ様子は信仰の厚さがしのばれます。
 
左側は民家アパートですね


参道を進み赤いのぼりが途切れた陰に石祠のひな壇が現れました。ひな壇中央には現代版の猿田彦大明神碑(庚申塔)が立てられています。
二世安楽の現代版家内安全・交通安全の刻字と下部に線彫り三猿
 キャスティングは右前列から白蛇弁財天・金神大明神・諏訪神社・水神大神、2列目右から稲心坊稲荷大明神・分高谷稲荷大明神・愛染坊稲荷大明神・三峰神社、3列目右は御嶽大明神・左は石清水八幡宮となっています。左の白蛇の後列は昭和6年笠間稲荷大明神・大正15年稲荷石祠となっています。稲荷だか弁天だか分からない状態です。旧資料にある弁天谷神社が未見となっていて、あるはこちらが合祀されたものかもわかりません。
余談ですが、豊四季の字名地は広く豊四季台団地は昭和3年~27年まで(元)柏競馬場があったそうですね。東武野田線には気象大学校近くに柏競馬場前駅もあったとか。また我孫子に住んでいた杉村楚人冠の勧めで2万坪のゴルフ場が造られた由、その跡地が今のJR東日本社宅地であるという話ですね。
122-4 小金原の野馬除け土手跡
近くを走る東武野田線をはさんで、豊受稲荷の反対側に広大な日立柏サッカー場があります。その近く緑ヶ丘交番前交差点の角に、野馬除け土手の遺構が残されています。
平成3年名戸ヶ谷郷土会で下記碑文

「柏市は古くから下総の牧として軍馬の産出地でもあり、江戸時代には市の大半が幕府領小金牧となりここはその東寄りに位置するところである。近隣農民に野馬除け土手を築かせ放牧馬を山犬や野火から保護し、多くの騎馬や農馬が養産された。この野馬除け土手沿いには野馬井戸と呼ばれる馬の水のみ場としての湧水池があった。・・・」


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2011/10/16

121北総石仏 柏の石仏 篠籠田(しこだ)


国道16号線と国道6号(水戸街道)がX字形に交わる呼塚交差点の西方にあたるのが篠籠田(しこだ)地区です。呼塚交差点の約1.5km西に高田小学校がありますが、これを目印にして川を挟んだ南方に真言宗西光院があります。
121-1 西光院の石仏庚申塔
立派な門前に柏市無形文化財「篠籠田の三匹獅子舞」の解説板があります。読んでおきましょう。
山門をくぐると広い境内の西光院
 まず参道左に文政十三年(1830)需道(待道)大権現石祠、文政三年(1820)文字庚申塔、享和二年(1802)文字青面金剛塔が並んでいます。
中央の庚申塔の面白三猿に注目です
 参道反対側には、昭和10年文字馬頭観世音塔と年不明ながら種字ウーンを深く掘り込んだ文字青面金剛塔が建っています。更に進むと数基の庚申塔がお出迎えです。
左から天保十三年(1842)文字庚申塔、嘉永七年(1854)出羽三山・百観音巡拝塔、元禄十六年(1703)六臂合掌青面金剛塔、享保三年(1718)合掌青面金剛塔、享保十四年(1729)合掌青面金剛塔、宝暦九年(1759)文字青面金剛塔となっています。その続きが下の写真です。
左端の文字青面金剛塔が上の写真の宝暦九年塔です
左から正徳三年(1713)石灯籠、延宝九年(1681)や寛文年間を刻んだ延命地蔵墓塔、延宝二年(1674)十九夜如意輪観音塔、宝暦四年(1754)宝篋印塔となっています。 見辛い写真と気になるものを下に載せておきます。
文政三年塔の三猿
天保十三年塔では右の磐上に小さい見猿がいます
樹下の延宝二年十九夜塔です
境内には林の中の散策路として石仏を配置した小道もあります。ただ、いろんな種類の石仏が配置されているので少々あたまを使いますね。
文化三年(1806)聖観音塔、文政九年(1826)普門品一万巻供養塔、宝暦十二年(1762)三面馬頭観世音塔、弘化五年(1848)地所弁財天石祠、年不明不動明王、文政十一年大日供養塔、文政十三年稲荷大明石祠、天和二年(1682)西国坂東秩父百観音巡拝塔、安政六年(1859)二十三夜塔などなど。
宝暦十二年三面馬頭観世音
本堂前を左に墓地へ向かいます。墓地入り口にも馬頭観音などが祀られています。 地蔵菩薩の間に寛政七年(1795)十九夜観世音菩薩塔、享和二年(1802)・天保六年(1835)馬頭観世音塔は頭部に馬印が付いています。
左が享和二年塔・右が天保六年塔で中央は不明板碑です
 西光院はちょっとした石仏集会所で、様々なものが集合しています。それだけ開発の波が押し寄せてきた経緯がある集落だったのかもしれません。
121-2 地主神社の石仏
西光院の東方500m、市立第七小学校の近くに地主神社があります。祭神は大己貴命です。神社の謂れはこちらをご覧ください。
寛保年号(170年代)の神号軸があるとか
立派な朱塗り四脚鳥居
石仏とタイトルしましたが、実際は石神のみですね。境内には雨除けに収納された石祠石塔が点在しています。天保七年(1836)疱瘡神、明治5年雷神社、天保十四年(1843)住吉神社・天照皇太神宮、天明四年(1784)山神社、嘉永元年(1848)仙元宮、年不明大杉神社等等であまり変化のない神々です。
富士塚上に嘉永元年の仙元宮があります

121-3  新田寮の石仏
資料には新田寮と記載があります。当地方では墓所にあった庵などを寮と称して、在所にある墓地も総称して何々寮と呼んでいるようです。地主神社前の道路を約800m東進した南側にあります。
右ブロック塀沿いが地主神社からの道路です
入り口に屋根付台石うえに享保十八年(1733)六地蔵です。保存がいいです。その側面に7基の石仏が露座で並んでいます。
今度は右からいきましょう。元禄十五年(1702)「奉造立庚申待講衆供養為二世安楽也」三猿庚申塔、享保十三年(1728)六臂合掌青面金剛塔、天保四年(1833)文字青面金剛塔、正徳五年(1715)・寛政八年(1733)十九夜如意輪塔、文政三年(1820)湯殿山三山大権現三峰四国百観音巡拝供養塔、昭和36年馬頭観世音となっています。
板駒型元禄十五年三猿庚申塔
これらと向き合うように、崩れかけた文化九年(1812)大乗妙典日本廻国塔と享保十年(1725)丸彫地蔵菩薩が祀られています。この地蔵塔は台石に「奉執行十九夜成就所」を刻む十九夜塔ということになります。
左の日本廻国塔は剥離が進んでいます
石仏としての保存は安泰ですが、手を合わせるのにはちょっと味気ない雰囲気ですね。



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2011/10/08

120 北総石仏 柏の石仏 旧柏地区

常磐線柏駅東口を出て駅前大通を200m程南東方向へ進みます。2つ目の信号を右折すると柏神社が見えてきます。駅前の市街地が柏地区となります。
120-1 柏の羽黒神社(柏神社の表示)
「神社明細帳」にいわく「古老ノ伝言ヲ聞クニ正徳四年創立開闢」と記された神社です。
この日は夏祭りの支度で賑わっていました
境内には持ち寄られたと見られる石仏があちこちに目に付きました。鳥居左手の玉垣(または瑞垣=ミズガキ)沿いに9基の石仏が並んでいます。
左から文政二年(1819)成田山標柱、宝永四年(1707)二手青面金剛塔、享保十六年(1731)「奉納牛頭天王石灯籠」、紀年不明庚申塔?、天保十三年(1842)庚申塔?、文政十一?年・安政三年・安政三年(1856)・天保九年(1838)青面金剛文字塔となっています。
左から2基目が二手青面金剛・右隣が奉納牛頭天王石灯籠
 特に宝永四年・合掌型二手青面金剛塔は、昭和30年代に提起された清水長輝・横田甲一氏の二手青面金剛の系譜研究取り上げられた特徴ある興味深いものです。
「奉納牛頭天王」については境内社に合祀された様子がないのでちょっと分かりませんね。それでもWikipediaでお勉強はしておきましょう。 更に玉垣沿いに大きな大正13年伊勢神宮参拝碑などが立っています。本殿横に回りこむと合祀された神々の石祠が長屋風に並んでいます。
左から文化元年(1804)山神宮・寛政十一年(1799)荒工大権現・同年大塚大権現・明治36年天形星神社・明治32年太神社(表示は天神)となっています。
荒工・大塚大権現もちょっと分からないので宿題としておきましょう。天形星神社も不明ですが、Wikipediaに「牛頭天王は陰陽道で天刑星と同一視された」との記述があるのも確認しておきましょう。
他には明治41年道祖神、明治35年白山神社、昭和21年羽黒神社石碑も並んでいます。
最後に鳥居から退出する際の左手に、平成21年改修の真新しい待道大神宮が祀られているのも興味深いですね。
最後に「水戸街道の木戸」解説板があるので、往時の様子を偲んでおきましょう。
120-2 柏の長全寺
羽黒神社(表示は柏神社)前の道路を250m北西へ進み、2つ目の信号を右折すれば曹洞宗長全寺があります。広い境内に近代的な山門・本堂・信徒会館などが整備されています。
 山門裏に四天王が祀られているのを見ることができます。四天王といえば東大寺戒壇堂の四天王立像が有名ですが、こちらの四天王もそのコピーといえるくらい似ていますね。
左:槍持ちの増長天と右:巻物持ちの広目天

剣持ちの持国天と香炉持ちの多聞天
広い境内に 下の写真のごとく弘法大師堂・大師堂・大日堂・不動堂が並んで建っています。
 
大日堂には明和二年(1765)大日如来石祠が祀られています。不動堂の火炎後背不動明王は紀年不明。実は石仏がありそうでなかなか見つからないという感じですが、無縁仏を祀った一画に馬頭観音が混じっていたりします。
寛政十二年(1800)馬頭観世音
左端:明治29年弘法大師供養塔・手前自然石:明治44年百観音・手前右端:大正12年文字馬頭観世音塔
 120-3 柏の諏訪神社
長全寺の北方300m、柏市立図書館そばに諏訪神社があります。「古老伝聞ニ寛永三年創立開闢」と伝わるお社です。
本殿左の塀際に小さく見えているのが、天保三年(1832)百庚申塔です。
鳥居をくぐれば左に、 立派な明治32年の自然石型八幡宮石塔・阿夫利神社石塔と三峯神社がそろい踏みのように並んでいます。その脇の塀際に下の写真のように石仏が並んでいます。
右端は延享四年道祖神・中央は享保十四年合掌六臂青面金剛
左に続くのは天明二年(1782)文字青面金剛塔や文政六年(1823)文字庚申塔などです。奥に進むと塀際に整然と70基の百庚申塔が並んでいます。更に社殿奥には28基ほどの百庚申塔が認められました。
百庚申は10基毎に青面金剛像塔が並びます。
くりくり目のショケラ持青面金剛さまです
社殿背後には合祀された諸神様が長屋風に鎮座されています。
右から大神宮・白山社・八幡宮・山王社・雷神社・疱瘡大神・道祖神となっているようです。
他にも鳥居のすぐ左に文化四年(1807)「准四国讃岐」金比羅大権現石塔・文政元年(1818)鹿嶋大神宮石塔も立派で見応えあるものですね。
隣には結構古い元禄十二年(1699)三猿庚申塔も見ることができます。鳥居右脇は嘉永六年(1853)待道大権現社も祀られています。
諏訪神社は小さいながらもちょっとした石仏ワールドとなっています。


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