2012/09/20

142 房総の二百仏 野田市御嶽三尊(No.88)

房総石造文化財研究会の「房総の石仏百選」「続房総の石仏百選」を北総から南下していきます。
思いつくままに関連した石仏を掲載することもあるのでご容赦。
142-1 御嶽三尊(房総の石仏No.88)
丸彫りは珍しく、木曽御嶽山野田市木間が瀬の白山神社に祀られています。訪問時は震災後8ヶ月程経った頃です。
拝殿左の広場で無残な姿を拝観することになりました。現在はどうでしょうか?
台上に残る三笠山刀利天、背を向けているのが座王権現、右下に(八海山)大頭羅神王
 ガイドには元治元年(1864)再建とあります。木曽御嶽山は大宝二年(702)役小角によって開山されたといわれ、後白河法皇・木曽義仲なども祈願・登拝されたと伝えられています。その後、天明年間に覚明行者によって信徒をつれて登拝、のち寛政四年普寛行者によって王滝ルートが開拓されて広く御嶽信仰が広められたのはガイドブックの通りです。(御嶽神社HP参照)
木曽御嶽信仰では蔵王でなくて座王権現と表記(するらしい)
 以前の御嶽山祭神は、大己貴命・少彦名命のニ神を主に種々の神々が祀られていたようですが、普寛行者以降は座王権現を国常立尊と解釈して以前の二神とあわせた三柱が座王権現と みなされるようになったようです。また僧侶でもあった普寛は、本地仏を胎蔵界大日如来としています。
(八海山)大頭羅神王=だいづらしんのう
大頭羅神王は医療の神(眼病)で八海山大神でもあります。提頭賴吨(だいとらた)の音写で四天王の持国天のことを指すそうです。(仏教語読み方辞典)
したがって中国武将・護法神風に右手剣・左手薬壺持ちに作られています。
台上の三笠山刀利天は右手槍・左手羂索持ちであったようです
三笠山刀利天は 上州上野の三笠山(諏訪山)の神様です。普寛の弟子が復興し信仰を広め普及したようです。普寛の頃は御嶽大神を主神として、右に武尊山大権現・左に秩父山麓の意波羅山大権現の三神が祀られています。その後の弟子達で八海山大頭羅神王や三笠山刀利天が加わって、後は広くこの座王権現・大頭羅神王・三笠山刀利天が普及したようです。
白山神社の境内は灯篭は落ち、拝殿の羽目板も痛々しい姿でありました。

本殿の脇に小さな随神が控えていますが、両神とも被災し痛ましい姿が残ります。
右・随神は向かって顔部右半身が剥落し、左随神も同様の損傷です
拝殿右奥にも10基の石仏が祀れていますし、力石があったりして楽しめる場所なので是非整備されるよう願っています。
右端は文化八年大乗妙典廻国塔・隣は明和六年青面金剛塔、他に慶応の三玉大明神や宝暦十一年庚申塔
明和六年青面金剛塔は、右手剣持ですが左手は持物無く下部は桃持ち一猿二鶏の珍しい像塔です
下部は桃持ち一猿二鶏の珍しい像塔です

御嶽大神関係の記載は「神殿大観」HPを参照引用させていただきました。

 142-2 野田市中里三社権現の大杉明神塔 (続房総の石仏 No.152)と御嶽三尊
木曽御嶽信仰は北総では盛行し、百選石仏のある近くの三社権現でも御嶽三尊が拝めます。
拝殿左広場に二十三夜塔・子待供養塔などもあります

茨城県稲敷市阿波の大杉神社の大杉大明神が、「アンバ様」として利根川流域に疱瘡退治に享保十年ごろから巡行が始まったとガイドに記されています。
拝殿左に富士塚がありその斜面に、文政六年(1823)の大杉明神塔があります。
周りが杉の葉で、左右に大天狗・小天狗の刻字
 石段のある富士塚の右にも塚があります。荒れていて上へ登れませんが、どうやら木曽御嶽三尊が祀られているようです。主尊碑は倒壊して判別できません。左の三笠山刀利天と大頭羅神王が御嶽三尊を示しているようです。
三笠山刀利天
大頭羅神王
 142-3(ご参考)67E-2東京石神井・御嶽神社の造化三神は御嶽三尊に訂正
2010年3月4日付で67E-2御嶽神社の造化三神を公開しました。こちらは国生三神を祀っていますとガイドどおりの記載をしました。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)と称していますが、はたしてそうか?
主尊御嶽座王権現=天之御中主神?

右手(折れた)剣持、左手薬壺持は大頭羅神王の持ち物です

右手(折れた?)槍、左手羂索持ちは三笠山刀利天の持ち物です
上記の写真は同じ三神にしては主尊ばかりかっこよく、脇神はえらく従属した格好で同じ国生神として並べるには無理があるように思えます。更に持物も 大頭羅神王・三笠山刀利天と同じ持ち物・持ち方ですね。更に普寛最後の弟子の一心神社が境内に並んであることから、一心の神号軸に多く見られる御嶽三尊(座王権現・三笠山刀利天・大頭羅神王)と想定するのが妥当と思います。
高御産巣日神・神産巣日神が薬壺・羂索持ちは無理な気がします。訂正しますね。


より大きな地図で 142 房総の二百仏 野田市御嶽三尊(No.88) を表示

2012/09/12

141 房総石仏二百選 県下最古の青面金剛(No.61)

7月8月と酷暑は石仏関係をお休みをしてました。英気を養ってと思っていましたが、体が想いに付いて行かない現実にびっくりですね。という訳でとにかく走り出そうと「房総の二百仏」巡りを綴ることにいたします。
平成11年に「房総石造文化財研究会」が「房総の石仏百選」を刊行しました。それに惹かれて筆者はこの研究会に入会したのですが、その後平成22年に「続房総の石仏百選」も刊行されました。併せて二百(選)仏になるわけですが、すこし軽め(エッセイ風)に「房総の二百仏」の現況を残しておこうと思います。震災の影響が残っているものもありますし、その後移転している石仏もあるので現況フォローの意味合いですね。
尚、表題項目に番号を付けておりますが1~100番は「房総の石仏百選」の付番で、101~200番は「続房総の石仏百選」の1~100番と読み替えてください。

141-1 千葉県最古の青面金剛(房総の石仏百選No.61)
所在地は野田市関宿台町の下町会館の隣が不動堂です。お堂前左手に7基の石仏が祀られています。


左から2基目は十五夜塔阿弥陀如来、隣が寛文三年青面金剛塔、右奥は貞享年代の阿弥陀塔
左から3基目が、県内最古の寛文三年(1663)六臂剣人青面金剛塔であります。よく見かけるのは右手剣と左手ショケラ持ちが多いのですが、こちらのように左手に輪宝を持つのは少ないですね。
寛文三年青面金剛塔、右は延宝五年ショケラ持青面金剛塔
ちょっと珍しい延宝五年(1677)十五夜塔阿弥陀如来

 平成21年に日本石仏協会主催第83回石仏見学会で「野田市・関宿城下の石仏」めぐりが行われました。その資料では「川底から引き揚げられた不動明王を本尊とする不動堂」と記されていますが、現在は無住のお堂がひっそりと建っているだけです。
見学会の資料から面白そうな石仏を記しておきます。
141-2 大竜寺の名号塔
お堂の道路向いが、浄土宗大竜寺です。幡随意上人によって天正六年(1578)に開かれたとか。幡随意上人に関してはWikipediaをご覧ください。
富士講小谷三志や徳本上人 らも宿泊した有力なお寺です。境内に、徳本上人の特徴ある名号塔が置かれています。詳しくは日本石仏事典P122に徳本念仏塔として解説があります。
徳本上人の丸に十の字の花押が見えます
裏面は利剣名号が彫られています
見学会の I 先生の説明では、利剣名号は「怨霊封じ」の功徳があるとかで、この石塔建立も若くして亡くなった家臣のために建立された経緯があるようです。
隣に 祐天上人の名号塔もあります。祐天上人に関しては祐天寺HP関係で閲覧できますが、増上寺住職で、町民や大奥にも行き仏とあがめられた名僧だったようです。
裏面の「南無阿弥陀仏」は鏡面陽刻
裏面の特異な鏡面彫りの意味が分からなかったのですが、先生の解説で「そのまま墨付けして採拓すれば、揮毫されたような六字名号が出来上がる」ので持ち帰り軸装し、朝な夕なに信仰していたのでしょう。なかなか、合理的!!と納得してしまいました。
関宿地区は他にも、 光岳寺の金銅仏・台町薬師堂の丸彫り虚空蔵菩薩・昌福寺の随求陀羅尼塔などがあって、ちょっとした石仏タウンですね。

大きな地図で見る