2013/08/30

153 房総の石仏200選 野田市編


3月からの長いブランクから立ち直り、200選の更新を再開しましょう。200石佛を回りきるのにあと少しで区切りが付けられます。しかし、遺失した石佛にはもう拝観できないと思うと、時の流れが無常という言葉を思い起させます。
153-1 野田市中里・西岸寺の庚(カノエ)供養塔 No. 147
宝珠錫持ちの延命地蔵に庚(カノエ)供養を刻んだ庚申塔。「続房総の石仏No.47」に記載されています。カノエ講は調査中との記載ですが、庚申講と同じものでしょうか?
寛文二年(1662)肩には百地蔵尊巡礼のお札

ネットで探すと、越谷市大泊観音堂の寛文九年(1669)「念仏並庚之供養」延命地蔵と流山市流山2丁目浅間神社の安永二年(1773)灯篭竿に「庚講中」が見受けられます。
このお寺の門前に並んだ石佛の後列右3基目に上記の庚地蔵様がおられます。
浄土宗の西岸寺の門前に15基の石仏
前列は六地蔵・猿田彦・庚申塔・名号塔、後列は地蔵・青面金剛・名号塔など
後列右2基目の元禄十五年(1702)正観音には百堂講?ごとき刻字もあります
西岸寺の山門をくぐった裏にも石佛のオンパレードです。地区の庚申塔や十九夜塔などを集めてきたのでしょうか。
前列右端は百庚申塔
 文政十二年(1829)百庚申供養塔、元禄十六年(1703)笠付合掌青面金剛塔から始まり天明五年・寛政九年・文政二年・天保七年~明治3年までの庚申塔や嘉永元年?十九夜塔・天保八年天地神塔・大正11年月讀尊塔など15基が整列しています。
153-2 野田市須賀神社の猿田彦塔 No.64
東武野田線野田市駅の西方約800m野田市下町交差点そばに須賀神社が鎮座しています。以前の訪問時に比べ境内・お社が見違えるように整備されています。
お社の後ろに富士塚、社の右後方に猿田彦塔
社の右側を進むと、大きな文化十四年二十三夜碑、文政四年弁財天塔、享和二年(1802)常夜燈が並んでいます。その先に、かっては筆者に大きな感動を呼び起こした猿田彦像が立っていました。昔日の面影はそのままですが、大空をバックにすると以前よりもどこかユーモラスな印象が強く残ります。文政六年(1823)の像立で像高145cm、石工3人がかりの力作です。
丸い穴の中は下の写真のとおり
足許の台座の中に三猿ですが、「いわ猿」が風化しています
下総に猿田彦像はすくないですが、野田周辺の信仰に国学影響が強かったのか猿田彦の丸彫りを時折見かけます。石佛百選にはないですが、おまけに一つ記しておきましょう。
153-3 野田市目吹の熊野神社の猿田彦塔
利根川沿いの県道7号から目吹三区自治会を目指して進むと熊野神社です。鳥居の脇に、庚申塔・大黒天などが17基並んでいます。
左から3基目、元文五年青面金剛塔の右に猿田彦丸彫像が見えます

弘化四年(1847)22名の寄進で像立されました
こちらの猿田彦はちょっと寸足らずですが、謹厳実直なお顔をされています。
153-4 野田市西三ケ尾・香取神社の稲荷大明神No.86
寛保二年(1742)未敷蓮華持ちの聖観音像、台石には二尾の神使

「奉造立稲荷大明神本地佛」の刻字を持ったお稲荷さんです。本当は十一面観音の種子キャをもっていますが像容は聖観音で作られています。いずれにしても滅多にお目にかかれない石佛です。
境内には文政十三年聖徳太子塔や八海山・三峰山参拝碑など、珍しいものでは明治35年「諸職工祖神」碑などが点在しています。
お社の裏に百庚申塔の勢揃いです

お社の陰には、68基に減っていますが天保九年?の百庚申塔も祀られています。
153-5 清水公園傍金乗院の弥勒菩薩 No.27
東武野田線清水公園駅で下車、清水公園内に野田市最古といわれる真言宗豊山派金乗院があります。本尊は薬師如来様ですが、拝観したいのは56億7千万年後に現れる弥勒菩薩様ですね。住職墓地の一角、台石に「弥勒尊」と刻字され蓮座におられます。
宝暦十二年(1762)頭部に五仏宝冠、結跏趺坐の宝塔持ち禅定印
有名な広隆寺弥勒菩薩像は半跏思惟形式(右脚を左膝に組む)です。後年の胎蔵界曼荼羅では、弥勒菩薩は①結跏趺坐の右手水瓶持ち左手施無畏印②禅定印で宝塔もちの二系統で描かれたようです。(岩波仏教辞典)
こちらは後者②の形式で曼荼羅から派生して造立されたようです。
頭に五仏宝冠(大日・宝幢・開蓮華王・阿弥陀・天鼓雷音)を載せ、法界定印の丸彫りは貴重です。県内をみると手許の22町村データでも6件しか見当たらず浮彫しかないようです。それも十四番阿波常楽寺本尊写として、お遍路さんからの派生でしょう。
153-6 長命寺の飢餓供養塔 No.159
野田市上花輪の真宗大谷派長命寺の本堂裏、墓地の一角にこの供養塔が建っています。「歉年賑給中死亡五百有餘人墓」(けんねん=飢饉の年、しんきゅう=ほどこし)の標記が目をひきます。
天保九年(1838)建立
 ガイドブックの解説によると、「天保四~八年の飢饉の際に天保七年から地元の茂木・高梨家で始めた炊き出しで救えなかった民衆を供養する」ため建立されました。右側面に「餓莩充野・・・鬱松柏陰」(莩=うえじに)と茂木氏による漢詩が刻まれています。
長命寺には太子堂があって、奉納されている句額が俳諧資料として有名です。
文化三年に四十四句を納額しています
 153-7 稲荷神社の木曽御嶽碑 No.164
木曽御嶽信仰は野田市区域で盛行し、御嶽碑は市内187基を数えるとガイドに記されています。房総では、出羽三山の縄張りが強固で木曽御嶽信仰は東葛地区から南下するのは難しかったように思えます。
利根川の堤防沿いです。鳥居脇に御嶽碑の塚。
木食普寛の刻銘と御獄山・武尊山・意波羅山の三山名

本碑は野田地区の布教黎明期である寛政十年(1798)に造立された初期のものです。脇神が「武尊山大権現・意波羅山大権現」となっているのは、後世の「三笠山権現・八海山権現」と異なり珍しいと解説されています。

憶測ですが、御岳信仰初期は秩父出身の普寛行者自身が東国の布教をおこなっており、身近に開山した秩父意波羅山と群馬武尊山を脇神と据えていたのでしょう。
 153-8 二ツ塚・香取神社の手児奈明神 No.93
はっきり言って超ローカルな神様と思います。
安政四年(1857)大明神にまで祀り上げ女人講中で造立
 万葉集にうたわれた手児奈伝説を神にまで祀り上げたのが 手児奈明神です。(※香取神社はリンク先の手児奈霊神堂ではありません。縁起参照)
万葉集に収載されているのは以下7首でしょうか。昔から超有名。
①葛飾の真間の手児名がありしかば真間のおすひに波もとどろに
②葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
③我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ
④いにしへに ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ
⑤勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
⑥葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を
⑦詠勝鹿真間娘子歌一首[并短歌]=長いので主題のみ
153-9 瀬戸・八坂神社の力石 No. 192
力試しに用いられる力石は各地で目にすることができます。
唯、力試し成功者まで刻字した力石はそう多くありません。
文政九年に2名、文政十三年に1名が持ち上げ成功

力石に関してはWikipediaをご覧ください。
尚、四日市大学健康科学研究室高島教授の「力石の研究」 のページ(http://www.za.ztv.ne.jp/takashim/chikara1.htm)も大変勉強になります。
尚、この神社の参道にはたくさんの庚申塔などが並んでいます。
元禄の顔面剥離塔や宝永元年十九夜塔・天明八年青面金剛等多数

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